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ふりがなをつけるプロローグ~Y先生のこと~
名身連では、2018年より視覚障害者の情報保障となる音訳ボランティア養成講座を開催しています。音訳とは、文字で書かれている本や雑誌、新聞などの内容を音声にして伝えることです。図や表の情報も含まれます。音訳ボランティアは訓練を受け、視覚に障害のある方の「目の代わり」となって、情報を声で伝えます。音訳だけでなく、校正や編集などの作業も行います。その講師として名身連に協力してくださっているのがY先生です。長年音訳者として、また音訳者を育成する講師として活動されています。先生のおしゃれで品がありながら明るく、凛とした雰囲気はどこからくるのだろうと思っていました。そこでインタビューをお願いして、活動を始められたきっかけやこれまでの人生についてお話を伺い、名身連物語とさせていただきました。
Yさんの物語
Yさんは東京の目白で幼少期を過ごしました。今の時代なら有名私立学校に通っているような良家のお嬢様でしたが、戦後間もない時期のこと、子どもたちは皆同じ地域の学校に通って学んでいました。学校から帰るとYさんは、お屋敷の隣の長屋に住む友だちとよく遊びました。まわりの大人たちの中には眉をひそめる人もいましたが、Yさんの両親は誰とでも仲良くする娘のことを認め、温かく見守ってくれました。人を分け隔てしない精神は、そんな両親からごく自然に当たり前に受け継いだものです。またそのころ、自宅近くに盲学校があって、視覚障害のある子どもたちをよく見かけていました。自分と同じような年頃の子どもたちが親に手を引かれて学校に通い、学校が終わるとピアノやバイオリンの教室に通っているところを見ていたのです。お母さんが通っていたお琴の教室にも視覚障害のある人がいて、幼いながらもいつしか、将来何かお手伝いができたらいいなと思うようになっていました。
Yさんが中学生のころ、NHKラジオで樫村治子さんの朗読による「私の本棚」という番組が放送され人気を博していました。Yさんもよくその番組を聞いていたのですが、あるとき国語の先生から、「Yさんも樫村治子さんみたいになったらいいぞ」と言われました。その時にはぴんとこなかったのですが、その言葉はいつも心のどこかに残っていました。
学校卒業後、Yさんは中学高校の家庭科の教員をしていました。年頃になってたくさんのお見合い話がきましたが、お父さんは一人娘のYさんを手放し難かったのか、簡単には首を縦に振りませんでした。けれどもやがて、お父さんが「この人なら」という人にめぐり合い、Yさん自身も一緒になりたいと思い、結婚が決まりました。
転勤族だったご主人とともに東京を離れ、しばらく大阪で暮らしたのち、移り住んだ愛知で、朗読奉仕員養成講習会が開催されていることを知りました。Yさんは、東京に住んでいるときから高田馬場の点字図書館を知っていて、点字や朗読をごく身近に感じていました。幼少期にいつか視覚障害のある人の力になりたいと思っていたことや、中学時代の恩師に樫村治子さんのようなアナウンサーになったらどうかと言われたことも、胸によみがえってきました。
誰よりも熱心な生徒だったYさんは、受講を始めて3年後には講師の卵にまでなっていました。もちろん講師としては新米なため、先輩講師に同行して猛勉強しました。ご主人はそんなYさんを理解し応援してくれました。Yさんもまた、ご主人が独立すると事務員としてその仕事を支えながら、朗読を続けました。活動的なYさんは車の運転も大好きで、まだ女性ドライバーが珍しかった時代に、4WDの車でご主人を会社に送り迎えし、ゴルフに行くときもハンドルを握るほどでした。
Yさんの朗読活動中心の日々は変わらず続いていました。そのころ全国の点字図書館には、朗読図書について視覚障害者から多くの意見が寄せられていました。朗読してくれるボランティアさんには大変感謝しているけれど、朗読に読み手の感情をこめられてしまうと、自分の感情でないような違和感をおぼえるというものでした。ふつう朗読者は感情も含め伝えようとします。その声の質や表現に惹かれる視覚障害者が多くいる一方で、NHKのアナウンサーのように感情をこめず淡々と情報を伝えてほしい、そこに自分の感情をのせたい、と思う視覚障害者も多数いたのです。
Yさんの音訳へのかかわりは、ここから始まります。声は情報を伝えるツール。感情を伝えることが苦手でも、論理的に構成された音訳の手法なら、誰もが訓練して習得できると考えたのです。Yさんは改めて音訳をしっかりと勉強し、後進を育てることに力を注ぎ始めました。今のようにパソコンによるデータ処理ができないため、カセットテープ相手に苦戦しつつ、もちろん自身も音訳者として活動しながら、多くの音訳者の育成に励みました。
パソコン録音になったのち、2007年に厚生労働大臣賞を受賞したYさんはなお一層、自分のスキルを後進の音訳者たちに伝えたいと、思いを強くしました。
音訳に浸りきるような生活のYさんですが、これまで2年間だけ活動を休止したことがあります。Yさんの活動を見守り支え続けてくれたご主人の介護をしていた時期です。入院中は、朝ご主人が目を覚ます前に病室に赴き、夜は眠りに就くのをベッドの傍らで見届けてから帰宅するという生活を、1年と数ヵ月にわたり続けました。在宅での闘病生活が始まってからは、在宅医師や訪問看護師さんの協力を得ながら、ご主人の介護ひとすじでした。その最期を看取ったのも自宅でした。ご主人と最後の言葉を交わした後、生命が閉じていくその瞬間まで立会いました。
Yさんはその時のことを、辛かったとか、悲しかったという言葉では語りません。「いろいろ勉強になった。私はなんでも面白がるのよ」と明るく話します。Yさん曰く、「やるだけやったから、後ろは振り返らない。反省はしてもいいけど、後ろは向かないで前を向くの」。その言葉が、Yさんの全てをあらわしているようでした。
介護生活を終えたYさんでしたが、活動休止期間のことを考え、もう一度音訳をやることはないと思っていました。けれどもYさんの事情を知った多くの人から、ぜひ活動を再開してほしいと声がかかりました。Yさんを必要とする人たちが、Yさんの戻りを待ちわびていたのです。
再びYさんは音訳中心の生活に戻りました。そして以前にも増して音訳者の育成に力を注ぎました。介護生活をしていた時の経験から、自分が活動できなくなっても視覚障害者への支援が途切れないようにしなければという思いが一層強くなったからでした。
エピローグ~そして今~
私たち名身連は、視覚障害者への情報支援としてデイジー制作事業を手がけてきましたが、いずれ音訳者養成講習会を開催したいという思いを暖めていました。両者の思いが一致して名身連音訳ボランティア養成講習会の実施が叶い、Y先生に講師としてご協力いただいています。それだけでなく、一足先に別の講座でY先生に音訳を教わった名身連の職員に対して、熱心に実技指導を行っていただいています。
Y先生の音訳講座の教え子である名身連の職員に話を聞きました。
Q:Y先生はどんな先生ですか?
視覚障害者の方のためにという強い信念を持って音訳活動に励んでいらっしゃり、その熱意が日々の音訳指導からもひしひしと伝わってくる情熱的な先生です。特に音訳では言葉ではなかなか理解が難しい説明も、とても丁寧に教えてくださいます。
Q:音訳活動を行っていて、どうですか?
改めて一つひとつの言葉の大切さ、表現の難しさを感じています。視覚障害者の方の見え方もさまざまですが、音だけを頼りに情報を得ている方にとっては、同じ言葉でもアクセントはもちろん、言葉と言葉の間(ま)が微妙に変わることで誤解を招いてしまう可能性があるため、音訳中は単に文字を正確に読み上げるだけではなく、録音をした後に自分の声がどう聞こえるかを確かめながら音訳活動を行っています。
Q:これから音訳を始めようかと思っている方や音訳を知らない方に一言。
音訳を始めてから日常生活でも言葉を大切に発音、表現する意識が芽生えた気がします。その他にも、音訳ではさまざまな資料の音声化に取り組みますので、自分が知らなかった表現や地名など音訳活動から自らの知識が広がっていくことも感じています。日々、少しずつではありますが自分の成長が視覚障害者の方の情報保障につながっていると思うと、改めてその責任とやりがいを感じます。
そして先生からも直筆でメッセージをいただきました。ありがとうございます。
メッセージテキスト:
視覚障害者の方々の「目の代わり」として、38年間余、音訳活動で培ってまいりました技術と知識を後に続く方々に出来る限りお伝えして、クウォリティーの高い音訳者が育つお手伝いが出来れば幸甚でございます。また、音訳者としても多くの録音資料を作成して行く所存でございます。
Fさんが聴力を失ったのは、まだ言語を獲得する前の3歳の時でした。原因は不明でした。聴力を失った幼い女の子が、話したり書いたりできるようになるということは、想像を絶する困難を伴います。なにより家族の熱心な教育があったからこそ、今の彼女があると言っても過言ではありません。まるでヘレンケラーに言葉があるということを教えたサリバン先生のように、家中の家具や物にペタペタと紙が貼られ、一つひとつに名前があることを教えられたそうです。想像して下さい。私たちが外国語を覚えるのと同じように、全ての単語を覚えなければならないのです。しかも、それは耳からは入らない情報であり全て目で見て覚えていくのです。
物に名前があることを知った後も、習得しなければならないことがありました。発声訓練です。聞こえる人は、自分の声や他の人の声を聞いて、単語を知るのと同時に発声を学びます。お母さんが、「マンマ」と言うと赤ちゃんが「マンマ」と繰り返し、自然に発声を学んでいきます。けれども聞こえない人は、特別な訓練を受けて発声を学ぶ必要があります。幼い彼女は、聾学校の幼稚部、小学部でその訓練を受けたそうです。薄いおせんべいをペロペロなめ、穴を開ける遊びを通じて舌を鍛え、その使い方を学ぶなど、それが訓練ということもよくわからないまま発声の訓練に入ります。その後も五十音の一つひとつを口の形を鏡で映して見ながら覚えたり、それぞれの舌の動きなどに注意したりしながら学びます。例えば「ふ」の形は、「ろうそくをフーッと消して」と学ぶそうです。聞こえる子供たちが自然に覚えていくことを、聞こえない子供たちはそんな苦労をしながら覚えていくのです。
その後、Fさんは難聴学級のある小学校に通いましたが、3年生からは地元の小学校に転入しました。今でこそ、障害のある子供が地域の小学校に通うこともが普通になりつつありますが、その当時はまだ高いハードルがありました。Fさん自身、とても不安でしたし、同級生も、初めて障害のある子が転入してくるということで物珍しかったらしく、他のクラスからわざわざ様子を見に来る子がいたり、一部の男の子たちからは、聞こえないことをからかわれ、いじめられたりすることもありました。けれども一方では仲の良い友達もできて、大人になった今でも交流が続いています。
地元の中学を卒業後は、将来を考え、高校、大学へと進学することになりました。大学時代のFさんは、自らも障害があることから、障害のある人を支援する仕事に就きたいと思い始めていました。スポーツ好きだったこともあり、名東区にある障害者スポーツセンターに通って水泳を楽しむようになりました。そこで自分以外のさまざまな障害のある人に関わったことは、彼女の世界を広げました。また、大学では、同じ聴覚障害のある学生たちが積極的に活動する様子をみて刺激を受け、これまで消極的だった自分を見つめなおす機会を得ました。このような経験を重ねたことで、福祉の仕事に就きたいという気持ちがさらに強まったそうです。
Fさんは大学に入学してから手話を学びはじめました。それまでのFさんのコミュニケーション手段は、口話の読み取りが主でした。実際に、小、中学校、高校までは先生の口話を読み取るように努力していましたが、難しく、授業のほとんどは予習、復習と、友人たちの助けを借りながら乗り切りました。大学に入り、学生のボランティアがノートテイクや手話通訳をしてくれるようになると、Fさんはコミュニケーション手段を増やすためにも手話が必要だと感じたのです。
また就職について考え始めたFさんは、聾学校の教師を志すようになりました。しかし当時は、障害のある人が教員採用試験を受けることすら難しい時代で、教員になることは断念せざるをえませんでした。当時はバブル好景気だったこともあり、聴覚障害のある人の多くが大企業に就職していました。そんな様子を見て、どんな仕事に就くか迷うこともありましたが、長年の夢であった障害のある人を支援する仕事をあきらめることはできませんでした。
しかし、福祉の世界での就職活動も簡単ではありませんでした。利用者とどう関わるのか、利用者家族とはどのようにコミュニケーションをとるのか・・・常にコミュニケーションのことが壁になりました。そこで、Fさんはさまざまなボランティア活動に取り組むなかで、自らの能力を周囲に知ってもらうよう努めました。重度障害のある人のパート介助職の求人情報を大学で見つけたのは、そんな時でした。ボランティア活動の経験から、自分にもできるのではないかと考え応募し採用されました。そこでの仕事は、自ら言葉を発することが困難な重度障害者の方の介助が中心でした。利用者の声が聞こえない代わりに、常に注意して表情を読み取るようにしていました。利用者とのコミュニケーションは大変でしたが、それにもまして同僚や利用者家族とのコミュニケーションに苦労したと言います。同僚にお願いをして、会議の内容や申し送りをメモにするなど、配慮してもらいました。この職場での日々は、今の仕事をする上でも貴重な経験となっているそうです。
ここでの活動が3年ほど経過した頃、聴覚障害者の支援を行なっている名身連で職員募集をしていることを知りました。名身連については、学生時代に全国障害者スポーツ大会に出場した際にも関わりがあり、よく知っている法人でした。また、もともと聾学校の教員を志していたFさんにとっては将来、聴覚障害者の支援に関われるかもしれないという期待もあって応募。名身連に転職することになりました。当初はそれまでの実績を買われ、デイサービスの職員として勤務しましたが、平成4年に名身連福祉センターの建設に伴う聴覚言語障害者情報提供施設(略省 名身連聴言センター)のリニューアルに際して異動し、やがて所長という職名を得たのです。
現在は管理者として、聴言センターの事業全体を総括しながら、聴覚障害者の相談にのったり、通訳者など支援者に対するアドバイスをしたりしています。また、企業や学校、地域に出向き、聴覚障害者に対する理解を促すための啓発活動も行なっています。一方、当事者として聴覚障害者の声を行政に届ける役割も積極的に担っています。
なかでも、平成28年6月よりスタートした24時間救急手話通訳者派遣事業は、地域の聴覚障害者からの強い要望を受け、自らも聴覚障害者として必要性を感じて取り組んだ事業です。行政と共に実現に向けて整備に関わった結果、ようやく制度化されました。これからも障害当事者の視点から、地域の方々と共により良い社会を目指して活動していくことを忘れずに、頑張っていきたいと話しています。