名身連物語

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  • 弱視から全盲になって…仕事も子育ても!~Hさんの戦いの日々~

    2022年6月22日 自立・活動・交流
    Hさん 視覚障害
    弱視から全盲になって…仕事も子育ても!~Hさんの戦いの日々~

    Hさんとの出会い

    私が初めてHさんにお会いしたのは平成5年頃、名身連福祉センターがオープンして間もないころでした。点字の印刷機が名古屋市より貸与されることになったのがきっかけです。名身連福祉センターは、もともと聴覚障害者の情報提供施設「名身連聴言センター」を併設しており、聴覚障害のある方たちのご利用が多かったのですが、点字印刷機の設置により、視覚障害のある方のご利用も徐々に増えていきました。Hさんもそのおひとりで、点字印刷機を使うために福祉センターを訪れていました。

    当時のHさんは自営のマッサージ業がとても忙しそうで、ユニフォームである白いケーシーを着たまま、仕事の合間をぬってやって来ました。頭はスポーツ刈り、足元は雪駄という「ザ・マッサージ師」という出で立ちで、自転車でこぎつけるのです。Hさんは私にとって何となく怖い人という印象でした。職員にいつも厳しく、特に古くから勤務していた肢体障害のある女性職員とは静かな戦いを繰り広げていて、私はそれを傍らで見ていたからです。のちに、その職員とは顔なじみで居住区も同じであり、互いに言いたいことが言える関係なのだと知りました。

    白いケーシーを着て怒っている様子にハラハラしている女性職員

    やがて名身連第二ワークス(当時は、身体障害者通所授産施設)で、視覚障害者の会員の要望に応えるため、点字印刷に取り組むことになりました。Hさんには、点字印刷を始めるにあたりいろいろアドバイスをいただき、また名身連の役員もお務めだったので、会議や福祉大会などでよくお顔をお見かけするようになりました。会議の席では厳しい言葉で意見を発し、福祉大会では点字の要綱が用意されていないことに抗議して烈火のように怒る姿を目の当たりにしました。

    同じころ、第二ワークスで受け入れていた小中学生のサマーボランティアに、偶然Hさんの娘さんが参加していました。とても明るくて活発なお子さんで、このような娘さんを育てられているHさんは、思ったよりやさしい人なのかもしれないと感じました。良きお父さんとしての違う一面を見た気持ちになりました。

    女の子が机を拭いていて、女性職員がケーシーを着ている人を想像しながら見ている様子

    名身連に関わり始めてから…

    それからおよそ二十年後、縁あってHさんは名身連の常務理事になりました。久しぶりにお会いしたHさんは全盲になられていましたが、性格は相変わらずで、いつも厳しいご意見をいただいていました。以前からの知り合いだったこともあり、徐々に本音で話ができるようになりました。その流れの中で、Hさんが視覚障害者の自立や社会参加を実現しようと熱心に活動してきたことを改めて知り、また個人的な話も聞く機会が増えました。お母様が障害のない子と同じように育ててくれたこと、そのため地域の普通学校に通ったこと、弱視であったため黒板の文字が見えず勉強に苦労したこと、いじめられないよう、ケンカで負けまいとしたこと、盲学校ではマッサージと鍼灸師の国家資格をとって、経済的な自立を目指したこと、卒業後は一般企業で障害のない人たちに混じって働き、負けないように努力したこと、独立して顧客を確保するためにマッサージの技術を磨いたこと…。

    結婚は視覚障害者同士であったため、周囲から反対されました。反対を押し切って結婚したこともあり、子どもが生まれても自分たちだけで必死に育てました。障害者の親だからと言われないように厳しく育て、経済的にも自立し、家を建てるために朝早くから夜遅くまで休むことなく働いたそうです。そんな雑談の中でHさんが必死に生きてきた歩みが見えてきました。

    地域との関わりにしても、自営業のため、昼間でも活動できるだろうと役員を任されていました。笑い話で、視覚障害者なのに黄色い旗を持って交通安全の見守り役をさせられたと聞くこともありました。「お父さんが目が見えていないとは思ってなかった。だって料理や洗濯のような家事もしていたから」。子どもたちは大人になってからそう言ったそうです。子どもたちに障害を感じさせないほど家庭でも頑張っていたHさん。いつも熱い人だったのだと思います。いつも何かと戦って、そして自分で勝ち取って。

    全盲の男性がいろいろと思い巡らせている様子

    そんなHさんも、弱視から全盲になった時には、しばらくうつ状態になり、自宅から出かけることが少なくなりました。後になって知ったそうですが、「誰がお父さんの面倒をみるか」という家族会議が開かれたとのことです。そんな実体験があったからこそ、現在は役員として、中途で視覚障害になった方の心のケアや生活へのアドバイスをすることができるのだと思います。Hさん自身、全く見えなくなった自分を少しずつ受け入れ、音声パソコンを使いこなすようになるなど、前に進もうと動き始めたころに、名身連の常務理事となりました。当時、名身連は深刻な課題を抱えており、Hさんはまさに法人の立て直しに向けて戦うことになったのです。

    それから十余年。名身連会長を務めるようになったHさんのおかげで様々な問題が解決し、現在では開かれた法人運営となっています。

    障害の種別を超えて

    当初は視覚障害者の福祉の向上こそ我がこととして活動してきたHさん。多くの場面で視覚障害の当事者として発言してきました。今は多様な障害のある人たちの代表となり、視覚障害者以外の人と関わる機会が増えました。それにより、Hさんの世界は広がりました。様々な場面で、障害によって困りごとや配慮してほしいことが異なること、互いに譲り合わなければならないこと、協調して問題解決を進めなければならないことを経験してきたHさん。今は障害当事者の代表であることを意識した意見を出しています。

    「社会に理解してもらう前に、障害者同士が理解し合わなければいけない」「自分でもできたのだから」という言葉には実感がこもっています。一方で障害のある人の福祉向上に向けた情熱は変わらず、熱い声を上げ続けています。例えば、行政関係者の名刺に今では点字が印刷されています。少しずつ社会が変わってきたのはHさんの言葉の積み重ねがあったからこそと思います。

    全盲の人の周りで、いろいろな人がいる

    現在のHさん

    私生活では子どもたちも独立し、今はおじいちゃんとなったHさんですが、全国の視覚障害者団体の役員も務めており、月に数回、朝6時前に一人で新幹線に乗り、東京の事務所や全国規模の会議に出かけます。もちろん地元の会議や名身連の法人運営にも携わり、様々な場面で発言しています。携帯電話をスマートフォンに変え、コロナ禍においては、オンライン会議にも自宅から参加するなど、社会の流れに遅れることなく、積極的に関わっています。社会がIT化されていく中で、障害当事者としての気づきや意見を国や地域の関係者に伝え、誰も取りこぼされることのない社会になるよう今も精力的に活動しています。

    PCする全盲の男性

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  • 腕一本で縫製の職人となり…そして現在、講演活動に積極的に携わるKさん。その人生に関わった支援者の記録

    2021年2月16日 自立・活動・交流
    Kさん(50代) 脳血管障害
    腕一本で縫製の職人となり…そして現在、講演活動に積極的に携わるKさん。その人生に関わった支援者の記録

     

     

      初めて出会ったときのKさんは、自信が無さそうな雰囲気で、そして言語障害のためか、言葉数も少なく、話しかけてもうなずく程度でした。自 分の言葉や気持ちが通じない心配と不信感とが入り混じったような表情で、リハビリ施設の職員に連れられ仕方なくこの場に来ているという感じがありありと見受けられました。

     
    最初は返事もあまりできませんでした(本人によるイメージ写真)

     しかし、相談室を出て作業場の見学に入り、自分と同じ障害のある中年男性が片手でミシンを使って縫製作業をしている様子を見た途端、急に目の色が変わりました。食い入るようにその手元を見つめているのです。私はすかさず、作業をしていた利用者に頼んで、これまでの経験をKさんに話してもらいました。名身連で初めてミシンにさわったこと、障害を負うまではミシンなどさわったことがなかったこと、そして今はミシン作業が自分の生活のハリとなり、やりがいをもっているということ。相談室に戻ったKさんの目は打って変わって輝いており、一筋の光を見出したようなまなざしになっていました。私は、先輩利用者の力を信じていました。先輩の働きぶりを知ることが、どれだけKさんの力になるか分かっていたので、二人をつないだのです。支援者として、Kさんが先輩利用者と同じくらい力を持っていること、その力にまだ自分で気づいていないことを見越していました。Kさんを当施設に紹介してくださったリハビリ施設の記録やデータが根拠です。私たち支援者は専門職として、その人の持っている力や、能力、人柄などを客観的にトータルで把握し、支援の方向性を考えていくことを大切にしています。
     そこからKさんは実習を経て名身連を利用することになりました。その当時Kさんにはご家族があり、奥さんやお子さんのことなどが話題に上がることもありました。たまたまご家族で買い物をしているところに出会う機会があり、こちらからもご挨拶させていただきましたが、この家族の中心を担うのはKさんであり、家族のリーダー的存在であることを知った瞬間でもありました。
     そんなある時、他の職員からKさんが家族のことで悩んでいるという報告がありました。Kさんは、ひどく落ち込んでいる様子でした。話を聞くと、家族の中の金銭問題や離婚問題でしたが、支援者に何かを求めているわけではなく、誰かに聞いてほしいという気持ちだったようです。Kさんは自分の意思や意見をお持ちでしたので、支援が必要な時以外は見守ることになりました。Kさんが仕事を通して、少しでも気持ちを切り替えられるよう、いつもと同じように接することにしました。Kさんが自分だけで問題を解決するのが難しければ適切な関係機関へつなぐことも考えていましたが、結果的にはご自身で問題解決されました。その後Kさんは離婚され、家族と離れて暮らすことになり、ご実家での新たな生活が始まりました。夏休みなど長期のお休みには、Kさんの子どもたちが施設にボランティアにくるなど、関係は良好でした。Kさんは父親として働く姿を子どもたちに見せることができ、子どもたちには障害のある人がたくさんいることを知ってもらう良い機会でもありました。
     施設での作業に慣れ、ミシン作業の力もつき、頼られる存在となったKさんに、新たな目標ができました。当初は施設を訪れる人や学生さんの見学対応や説明をお願いしていましたが、そのうちにご自分の体験談なども話してくれるようになりました。Kさんはそうした活動を重ねるうちに、もっと多くの人に自分の話を聞いてもらいたいという気持ちになりました。そして私たちもそのような場を積極的に作りました。例えば交通局の職員研修や大学の講義のゲスト講師等です。そうした場で積まれた成功体験は、本人の次の意欲につながります。言語障害のあるKさんが、今では人前で積極的に話す活動に喜びを見出し、今の夢は全国を講演して回ること、そしてテレビに出ることだと言います。
     
     布団カバー1枚5分という高速技!笑顔で話してくれながらも手は止めません

     Kさんの支援に関わったことは、私自身の喜びでもあります。支援で関わった人が良い方向に変化していくのを目の当たりにすると、自分の仕事の価値を改めて実感します。一方で人の人生に関わることは、とても重いことでもあります。時には自分の人生観にも影響してきます。しかし、この仕事は自分自身の成長にもつながっています。そしてそのためには専門職としての専門性や人として人間力を常に磨く必要があると、日々痛感しています。
     以下は、公益社団法人日本脳卒中協会による「脳卒中体験記 脳卒中後の私の人生 第22回令和元年度入選作品集」に掲載されたKさんについての文章です。
     

    「自分を信じて挑戦すれば必ず幸せが来る」
     
     私が脳出血を発症してからの11年間、様々な事がありました。その体験をお話しします。
     私は、25歳まで、車の工場で出来たばかりの新車を大型のキャリアカーで運ぶ仕事をしていました。一日6カ所を回ったり、仙台から福岡までと長距離のときもあり、だいたい11時間通しで働いていました。勤務体制は、昼勤と夜勤が1週間ごとに変わるなど、不規則でした。
     ある夜中の仕事中、めちゃくちゃお腹が痛くなりトイレに行きました。しかしお腹の痛みは治らなかったため、運び終えた後に病院に行こうと思い運転を始めました。しばらくして「これは普通ではないぞ…」と、何とか車を路肩に停車させました。この時既に、携帯を持つことも出来ず、ハンドルも握れず「なにこれ…」と、そのまま気絶しました。
     2時間後、同僚のキャリアカーの運転手が、たまたま停車している私の車を発見しおかしいと思ったのか、車の中で倒れている私を発見してくれました。同僚から「大丈夫か」と声を掛けられ、私は「生きている、良かった…」と思ったことを覚えています。
     救急車で病院に運ばれたようで、意識が朦朧(もうろう)としている中、様々な医療機器があり「何をされるんだろうか」と感じたことは覚えています。3日間意識が戻らなかったため、緊急で他の病院に運ばれたようです。意識のない中、子どもの「お父さん、死んじゃいやっ」という言葉が記憶に残っています。その2週間後にようやく意識が戻りましたが、医者から「脳出血です」と言われ、頭の中が真っ暗になりました。なんでこんな風になったんだろう、と。身体の右半身は動かないし、私が普通に話しているつもりでも、相手には何を話しているか分からない状態でした。
     自宅から近くの回復期病院に転院しました。頭から足のつま先まで動かない日々が続きました。「早く仕事に戻らなければ」と思っても、身体が動きません。ある日、病院でリハビリに励んでいた時のこと、会社の上司が見舞いに来てくれ話もそこそこに「近藤君はいっぱい頑張ったけど、もう会社はクビだよ」と言われてしまいました。ショックでした。
     その後、退院し自宅に戻ることが出来、嬉しかったです。しかし、自宅に戻ると、今までなかった高価な物品や犬(3匹)がいて「あれっ?」と思いました。妻に「僕の入院中にどうしてこんな物を買ったの?」と聞くと「保険でお金が沢山できたから」と返ってきました。会社もクビになり収入がなく、家族なのに相談もしてもらえず、後遺症も抱え、友人も少なくなっていた私は、パニックになってしまいました。パニックになった私は、台所にある包丁を左手にとり手首を切って自殺をしようとしました。しかし、子供が泣きながら「お父さん、やめて」と止めに入りました。この生活に耐えきれなくなった私は、妻と離婚をし、実家(母親と2人暮らし)に戻りました。
     実家に戻り、名古屋市にある障害者の就労支援施設「名身連第一ワークス」でミシンの仕事を始めるなど、徐々に落ち着きを取り戻し「もう大丈夫だ」と安心していた矢先、母親に十二指腸のガンが見つかりました。「どうして…」と思うや否や、母は息を引き取りました。さらに、3年後に姉が、5年後におばあさんも息を引き取りました。仕事も出来ず、食事も箸すら使えず、話すことも出来ず、全てが終わったような気がして「もう死ぬしかない」と思いました。
     なんで自分がこうなるんだろう…
     なんで家族がバラバラになるんだろう…
     なんでみんな亡くなっちゃうんだろう…
     もう耐えられなくなりました。
     ミシンの仕事も下手で思うようにできず「もう辞めます」と職員に言いました。ところが職員から「普通はそれでも良いかもしれないけど、片麻痺で、片手でミシンが出来たらすごいよ。素晴らしいよ」と説得してくれました。さらに「近藤さんには、子どもや友達、いろんな人が周りにいるから自殺なんかとんでもない」と怒ってくれました。私は一度は死のうと決めたけれど「死ぬのはいつでもできる。でも生きることを続ければ、沢山のやるべきことが残っている」と自分に言い聞かせました。「自分を信じていつか必ず幸せが来る」と思いました。
     今自分にできることは、障害者として広くみんなに語ることができる、ということです。同じ障害者の人に声をかけ、自分の経験を伝えています。同じ障害者でも、私よりも状態の重い人もいますが、私の経験と話が、その人自身が障害について受け容れられるきっかけになればいいと思います。私は右半身麻痺で失語症もあり、様々なハンデを抱えていますが、挑戦を続ければ必ず幸せが来ると信じています。

    「日本脳卒中協会脳卒中体験記『脳卒中後の私の人生』 第22回入選作品集」より
     https://www2.slideshare.net/secret/NvUAeKtzgiy330

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  • 障害者作品展STORY 作品No.1

    2019年10月21日 自立・活動・交流
    三井カヲルさん(女性) 聴覚障害
    障害者作品展STORY 作品NO.1

    プロフィール
     名身連は、毎年2月に障害者の作品展を名古屋市博物館で開催しています。昨年度(今年2月)からはバーチャル作品展を実施し、名身連のホームページ上でもお楽しみいただいているところです。
     障害者にとっては創作する喜びや情熱、才能の発露の場であり、そしてそれは多くの人の心に響きます。作者である彼ら彼女らは、どんな人たちで、どんな気持ちで作品に向かっているのでしょう。私たちだけが知っている名古屋市障害者作品展のSTORYをご紹介いたします。

    作品No.1 朝の一コマ

     カエルの家族は2世帯同居。お母さんカエルは毎朝5時に起きて、家族のために朝食を作ります。6時半には子ども2匹を起こし、ご飯を食べさせるのです。2匹は7時には学校へ向かいます。飛び跳ねて向かって1時間かかります。お母さんは今日も無事に子どもたちを送り出せました。お父さんは子どもより朝はゆっくりできます。7時半に自転車で会社に向かいます。おじいちゃんとおばあちゃんはのんびり毎日過ごします。

    作者紹介:三井カヲルさん
     小さい頃からモノ作りが大好き。耳が聞こえないことで、周りから「バカ、バカ」といじめられ、一人で過ごすことが多かったそうです。周りのみんなは学校に行っていたが、彼女は農作業をする両親に付いて畑で遊んでいました。田畑には生き物がいっぱい。観察力と創造力が高く、葉っぱでバッタを作るなど、手先も器用でした。19才から和裁の学校に行き、聞こえる生徒たちの中で技術を学びました。卒業後は自宅で和裁の注文を受けるようになります。父親は娘の和裁の腕を見て、畑仕事ではなく和裁に集中するよう言います。好奇心も向上心も旺盛な彼女は、その後織機の勉強を3年し、着物の帯の刺繍や革製品の小物も作りそのアイデアをお店にあげていました。その後恋に落ちて、出身地を離れ夫と生活します。夫を亡くし、失意の中名古屋に移りました。名古屋で就職した会社でも今までの技術を生かし、モノ作りを続けます。仕事を引退するまでは生活のためのモノ作りでしたが、今はモノ作りを教えたり、溢れる創作欲から自分と人のために作品を作り続ける日々です。

     

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  • 障害を意識せずに過ごした幼少期、とにかく楽しかった青春時代~当事者とつながり過ごした日々

    2019年2月18日 自立・活動・交流
    Nさん(名身連会員)70代男性 肢体障害
    障害を意識せずに過ごした幼少期、とにかく楽しかった青春時代~当事者とつながり過ごした日々

     

     

     

     

     

     1945年(昭和20年)、三重県で生まれたNさん。3歳のある朝のことでした。布団から起きて立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず、立ち上がれないのです。それでも机につかまってなんとか立ち上がろうとするものの倒れてしまい、立ち上がれません。昨夜までは、何も変わった様子はなかったこともあり、親も最初はNさんがふざけているのではないかと思いました。しかし、そうではないことに気づき慌ててNさんを連れて病院に駆け込みました。Nさんは、当時3歳だったこの時の記憶を、70歳過ぎた今でも鮮明に覚えています。
     地元の病院では治療ができないと言われ、2日がかりで大阪の病院に向かい、受診しました。新幹線のない当時は、身動きが取れないほど込み合った列車を何度も乗り継いで移動するほかありませんでした。車中でお父さんは幼いNさんがお腹をすかさないよう、自宅でにぎったおにぎりを手渡そうとしましたが、途中で誰かに奪いとられてしまいました。お父さんは仕方なくNさんを連れて途中下車し、駅でおにぎりを食べました。戦後の復興途上の日本は、まだまだこのような状況でした。
     その後、両親はNさんのためにずいぶんお金を使いました。成人後、「お前は身上潰したな」と言われましたが、両親の愛情と努力の甲斐あって、Nさんはなんとか歩けるようになりました。しかし、足には障害が残りました。

     Nさんが通う地元の小学校で、障害のある子どもはNさんだけでした。しかしNさんは障害を意識することなく、元気に友達と野山を駆け回っていました。男ばかりの三人兄弟の真ん中ということもあり、両親も足に障害があることを気にせず他の兄弟と同様に好きなようにさせてくれました。Nさんを当時はかなりのやんちゃで、友達とよくイタズラをしましたが、村で足に障害のある子はNさんだけ。走って逃げていく姿で大人たちにはすぐにNさんだとばれてしまい、後からずいぶん叱られました。とにかく元気でスポーツも大好きなわんぱくな少年でした。
     このような幼少期の家庭や地域の環境は、Nさん自身に障害があることを意識させませんでした。このことが、障害をマイナスに捉えない今のNさんを作っているのかもしれません。唯一、Nさんが障害を意識したのは、運動会での徒競走でした。負けず嫌いのNさんは、走るみんなの後ろ姿を追って必死に走りました。その時の悔しかった気持ちは今でも覚えています。

     成人したNさんは、仕事の関係で名古屋に暮らすようになりました。26歳の時、中区でひとり暮らしをしていたNさんは、たまたまラジオから流れてきた「障害者の水泳大会に参加しませんか」という情報を耳にしました。もともとスポーツ好きで一人でプールに通っていたほど。すぐに区役所に出向き説明を受けました。障害者手帳を小学生の時に取得していたこともあり、すぐその場で申し込みをし、大会に出場しました。そして、なんと初めて参加した水泳大会で優勝したのです。当時役員として出席していた名身連の池田会長と出会ったのもそのときでした。大会に参加したことで、これまであまり障害のある人との関わる機会がなかったNさんは、自分以外にもたくさんの障害のある人がいるということを知りました。
     Nさんは、1974年(昭和49年)に茨城県で開催された全国身体障害者スポーツ大会の代表にも選ばれました。開会式に出席されていた当時の皇太子妃美智子妃殿下が、参加者や観衆に美しく手を振られる姿が今でも目に焼きついています。何より美智子妃殿下が自分に向けて手を振ってくださったように思え、感激しました。

     あるとき、名身連の会員Yさんから「名身連に入りませんか」という電話がありました。Nさんは、スポーツ大会で名身連のことを知っており、活動に興味はありましたが一人暮らしで経済的にも厳しかったため、会費のことが気になりました。年会費600円だと聞き、それなら大丈夫だと加入を承諾したところ、その日の夜にYさんが自宅まで会費を取りに来てくれました。そこまで親切に対応してくれたYさんに感謝し、そこからいろんな障害のある人と関わるようになりました。運転免許を取得していたNさんは、積極的に会員の人たちの足代わりを引き受けます。まだ免許が無かったころ、周りの人がいつも声をかけて車に乗せてくれたことが心に残っていたからです。Nさんは、これまで自分を気にかけてくれた人たちや、最初に名身連に誘ってくれたYさんが自分にしてくれたような対応を他の人にもするように心がけています。旅行に行ったり、スポーツをしたり、障害のある仲間と語り合い、笑い合いました。とにかく楽しくて仕方ありませんでした。
     身体障害者各区対抗のソフトボール大会にも出場して活躍しました。当時、名身連では各区対抗のソフトボール大会が開かれており、そこで優勝したチームが政令指定都市身体障害者ソフトボール大会に派遣されました。Nさんは、毎年のように派遣選手として出場していました。名古屋チームは政令指定都市身体障害者ソフトボール大会において、いつも優勝か準優勝でした。そのため他都市からとんでくる声は「打倒名古屋」だったほどです。

     時は流れ、Nさんも結婚し、仕事や子育てに追われていましたが、名身連の仲間との活動は継続していました。そして今Nさんは区身障協会・部会の役員として地域で生活する障害のある仲間のため、困りごとの相談や悩みの傾聴、交流の場づくりなど、いまだ奮闘しています。スポーツも続け、週に3~4回は名東区の障害者スポーツセンターに通い、健康維持を心がけています。またグランドゴルフ同好会を作り、肢体障害者だけでなく聴覚障害の人とも一緒に汗を流しています。名身連と出会って46年、今も変わらず地域の仲間と共に語らい、せっせと動きまわっているNさんなのです。

     

     

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  • 障害があってもなくても 人の役に立つのは「気持ちいい!」 ~保険の営業マンIさんが点字名刺の営業マンに

    2018年8月28日 自立・活動・交流
    Iさん ボランティア
    障害があってもなくても 人の役に立つのは「気持ちいい!」 ~保険の営業マンIさんが点字名刺の営業マンに

     

     

     

     

     

     

    出会いは偶然でした。
    その日、保険の営業マンIさんは、当時ウィルあいち館内にあったフェアトレードショップ「風‘s(ふうず)」に立ち寄りました。
    ちょうど第二ワークス(現 名身連第二ワークス・第二デイサービス)の職員が納品をしているところでした。
    まだ第二ワークスが身体障害者通所授産施設と呼ばれていた頃のことです。
    職員が並べようとしている自主製品の「押し花グッズ」に目をとめたIさんは、「ステキな商品ですね」と声をかけました。

    さすが営業マン。Iさんは人柄もよく聞き上手で、出会ったばかりなのに話が弾みます。
    「これ、ひとつひとつ手作りなんですよ」
    職員は、押し花がアレンジされた品物を手に、それを作った聴覚障害のある利用者さんの話をしました。
    それから第二ワークスのことも。
    障害のある人たちが就職を目指したり生きがいを求めて通ってきたりするようすを、気がつくと熱心にIさんに語っていました。
    ひとしきり話して名刺交換。
    職員の名刺には点字が印刷されていました。これがもう一つの「出会い」でした。

    見慣れない名刺に興味を引かれた様子のIさんに、職員は説明しました。
    「これは点字です。印刷しているのは障害のある利用者さんです。
    名刺だと、点字を知らない方にも見てもらえて普及につながるので」
    それを聞くなり、Iさんは尋ねました。
    「僕の名刺にも点字入れられますか?」
    「大丈夫です。お手持ちの名刺にそのまま印刷できます!」
    福祉と無縁に見える人が、いきなりこんな申し出をしてくれるなんて。
    初めての経験に驚きながらも、その場で商談成立です。

    早速Iさんから名刺を託され、その一週間後には納品となりました。
    点字名刺を受け取ったIさんからは、さらなる、そして思いもかけない言葉が。
    Iさんの勤め先の保険会社で毎月全体会議があるので、そこで点字の名刺をPRしてみたら、というお誘いでした。
    第二ワークスのことも紹介できる機会とあって、喜んでお受けすることになったのです。

    全体会議当日、集まった100人もの男性営業マンさんを前に、第二ワークスの職員が点字名刺のPRをし、施設のこと、そこで働く利用者さんのことを話しました。
    そしてIさんも、「名刺は営業マンの顔。点字を印刷することで、障害のある人の仕事づくりにつながるばかりでなく、受け取った人の記憶に残る名刺になります」とアピールしてくれました。
    特に第二ワークスには病気や事故による中途障害の方が多く、保険という仕事を通じて人生を支える営業マンには深く響くものがあった。
    これは後からIさんが教えてくれたことです。

    Iさんが宣伝してくれたおかげで点字名刺を注文してくれる営業マンさんが増えてくると、今度は会社での注文窓口をボランティアで引き受けてくれたIさん。
    取次ぎ役として月に2回は、仕事の合間をぬって第二ワークスに立ち寄るようになりました。

    Iさんはそのまま何年も通い続け、点字名刺を担当していた利用者Bさんとすっかり顔なじみになりました。
    Iさんとの交流を通じてBさんは、点字名刺の仕事に自信と誇りがもてるようになり、職員がいなくても直接Iさんと打ち合わせができるくらい積極的になりました。
    5年ほど経ったころには、毎月Iさんの会社に自ら納品に行くようにもなりました。
    初めのうちは不安顔だったBさんもだんだん慣れ、気心の知れたIさんのもとに行くことが楽しみになっていました。
    こんなやりとりが10年ほど続きました。

    その後Bさんは自宅近くの高齢者施設へ移られました。Iさんもご家族の介護などで以前よりは仕事をセーブされていますが、現在でも点字印刷の依頼で第二ワークス・第二デイサービスを訪ねてくださいます。
    ウィルあいちでの出会いからすでに20年。
    今でこそ視覚障害のある人への合理的配慮として点字名刺の依頼も増えていますが、Iさんはそのずっと前、点字名刺に出会うや否や点字名刺を手にし、その営業マンとして普及活動に飛び込んでくださいました。

    Iさんは言います。

      私の仕事、保険の営業を継続してゆくには「人との出会い」が重要で、
      当初は単純に「珍しい」→「記憶に残る」ということで、
      自身のアピール(営業活動)みたいなところはありました。

      しかし。

      長年にわたり携わっていくうちに、私の行動が、
      Bさんにとっての大切な「仕事」になり、
      それがBさんにとっての大切な「やりがい」になり、喜ばれている・・・
      そのことが年を追うごとに、私自身に実感されるようになりました。
      すると、私も何だか心が「ほっこり」喜んでいるのを感じたのです。

      なんだ、
      営業でもボランティアでも
      障害がある人もない人も
      誰かの役に立つのは「気持ちいい」
      みんなそこのところは一緒なんだ!

      そんなことに、あらためて気付かされた
      「第2ワークス」さんと「Bさん」との出会いでした。

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  • 喫茶モア 第4回「焼きそば」

    2018年3月15日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • Mさんの人生いろいろ

    2018年3月14日 自立・活動・交流
    Mさん 手話通訳者
    Mさんの人生いろいろ

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 喫茶モア 第3回「ピラフ」

    2018年2月3日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • ファッションショーで新しい自分に出会う

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Aさん(元第一WD利用者) 肢体障害
    ファッションショーで新しい自分に出会う

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 喫茶モア 第2回「ミックスサンド」

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • 喫茶モア 第1回「イタリアン」

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • 喫茶モア~開店準備中~

    2018年1月11日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
    喫茶モア~開店準備中~

    「喫茶モア」は、昭和56年の名古屋市障害者スポーツセンター開所と同時にセンター内に店開きした喫茶店の名前です。それから平成21年までの28年間にわたり営業していました。名古屋市障害者スポーツセンターは全国的にみても長い歴史のあるスポセンです。近隣に障害者専用のスポーツ施設がなく、多くの障害のある人たちが熱心に通ってきていました。地下鉄の本郷駅からは名身連の運行する送迎バスも走っていたので、今も昔も毎日500人近く(平成20年1日平均約472人)の人たちが利用する大規模な施設です。トレーニングルーム、プール、卓球室、STT(視覚障害者卓球=サウンドテーブルテニス)室などで各々の目的に応じて体を動かしたあとは、モアの美味しいランチやコーヒーを一緒に楽しみながら、おしゃべりに花が咲きました。名身連の会員であるHさんは、モアのママとして働きながら、数え切れないくらいたくさんの人たちと言葉を交わし、いろいろなできごとをかたわらで見守ってきました。彼女がそっと胸にとどめるエピソードを、当時のレシピと一緒にお届けできたら。そんな思いで、懐かしいメニューの作り方をHさんに教えていただいてレシピにすることと、素敵な昔語りをちょっぴり再現させていただくことにお許しをいただきました。

    ※名古屋市障害者スポーツセンターについての記述は、障害保健福祉研究情報システムHP掲載の論文(http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n337/n337007.html)を参考にさせていただきました。

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  • 40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    2017年3月9日 自立・活動・交流
    Dさん40代 脳血管障害
    40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    名身連第二ワークス・第二デイサービス生産活動(生産活動あり)→就労継続B型

    Dさんはかつて熱血営業マンでした。1年のうち300日は飛行機や車で出張しており、たまにしか自宅に戻らない日々。一人暮らしで生活も不規則になりがちでしたが、病気をしたことはなく、さほど健康に気を使わず過ごしていました。

    Dさんが、バリバリ働いている様子
     

    そんなDさんでしたが、あるとき出張先の東北から名古屋に帰る飛行機の中で意識を失いました。脳出血でした。飛行機がまだ離陸していなかったことが幸いし、そのまま仙台市内の病院に運ばれました。救急車の中で、救急隊員に声をかけられたことまでは覚えていたDさんですが、次に意識が戻った時には病院のベッドの上でした。鼻には管が入っていて息苦しく、言葉が上手く出てきません。おまけにベッドから落ちる危険があったため体がベルトで固定されていました。それでもお医者さんはDさんにこう告げたのです。
    「飛行機が離陸して空の上であれば、気圧が下がっていてもっと出血がひどかったかもしれない。また車の運転中であれば事故を起こしていたかもしれない。どちらにしても命を落としていただろう」と。
    その時Dさんは、拾った命をこれからは大切にしようと思いました。

    Dさんが、救急車で運ばれる様子。または、ベッドの上に点滴をうたれ寝ている様子
     

    二週間後には仙台市内の病院を退院して名古屋に戻り、2回の転院をした後、リハビリ施設で生活訓練を行なうことになりました。言語障害も少しずつ回復し、日常会話をすることにも慣れてきました。しかし以前のような働き方をすることは難しく、退職することになりました。それまでの生活を一新し、一人暮らしを再開するための家探しもしました。
    新しい生活に慣れ、障害年金で経済的にもなんとか暮らしていけるようになったDさんですが、自宅でボーッとする時間が増えてきました。介護保険施設の利用も考えましたが、Dさんはまだ40代。70代以上の利用者さんが多い介護施設では、話の合う人がなく、通う気になれませんでした。
    「自分は何をしているのだろう」「このまま社会から取り残されるのだろうか…」
    Dさんは、とても不安になりました。

    Dさんが、不安な表情で社会から孤立している様子
     

    訓練施設で一緒だった40代の仲間が障害者福祉施設で働いている、と聞いたのはそんな時でした。その人も元は運転手としてバリバリ働いていましたが、福祉施設では全く別の仕事を得て、生き生きと働いていました。その人からの勧めもあって、Dさんは自ら、名身連の施設に電話をかけました。見学に行ってみると、自分と同じような障害の人も、もっと若い人も、それぞれの仕事をもって働いていました。その様子を見て、「これなら自分にもできるかもしれない」と思い、施設に通うための通所訓練を始めました。
    その成果もあり、現在は一人で地下鉄を乗り継いで、週5日休むことなく、雨の日も車椅子用のカッパを着用して通所しています。
    当初は通所の疲労もあり生活介護(生産活動あり)に所属していましたが、通所にも慣れ、働く意欲が高まったところでステップアップし、就労継続支援B型に通うようになりました。今ではチームで行なう仕事を任され、リーダーとして生き生きと働いています。
    Dさんは言います。「恥ずかしい話だが、発病して最初のころは泣いてばかりいた。でもそんな生活を送っていてもしようがない、生きているうちはなんとか生きていかなくてはいけない、と考えを切り替えた。初めは行き場所があるというだけで十分に思えたが、今は自分のことだけでなく、若い人に伝えてゆくことを考えている。その中で、教えるだけでなく、逆に教わることもある。もらえるお金はわずかだが、介護保険ではお金を払わなければならない。お金をもらってリハビリしているつもりでいる」。
    今では、施設の説明会や見学者の対応なども担当してくださるなど、持ち前の営業マン精神が復活しているようです。

    車椅子に乗ったDさんが、大勢の前で自信をもってお話ししている様子

    イラスト協力@愛知淑徳大学 交流文化学部 福﨑 里彩 さん

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