名身連物語

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  • 福祉の現場で管理者に…聴覚障害のある職員がたどってきた道のり

    2017年1月20日 コミュニケーション
    Fさん 名身連職員 50代 女性 聴覚障害
    福祉の現場で管理者に…聴覚障害のある職員がたどってきた道のり

    Fさんが聴力を失ったのは、まだ言語を獲得する前の3歳の時でした。原因は不明でした。聴力を失った幼い女の子が、話したり書いたりできるようになるということは、想像を絶する困難を伴います。なにより家族の熱心な教育があったからこそ、今の彼女があると言っても過言ではありません。まるでヘレンケラーに言葉があるということを教えたサリバン先生のように、家中の家具や物にペタペタと紙が貼られ、一つひとつに名前があることを教えられたそうです。想像して下さい。私たちが外国語を覚えるのと同じように、全ての単語を覚えなければならないのです。しかも、それは耳からは入らない情報であり全て目で見て覚えていくのです。

    幼い女の子が紙の貼られたテレビを指差して覚えている様子

    物に名前があることを知った後も、習得しなければならないことがありました。発声訓練です。聞こえる人は、自分の声や他の人の声を聞いて、単語を知るのと同時に発声を学びます。お母さんが、「マンマ」と言うと赤ちゃんが「マンマ」と繰り返し、自然に発声を学んでいきます。けれども聞こえない人は、特別な訓練を受けて発声を学ぶ必要があります。幼い彼女は、聾学校の幼稚部、小学部でその訓練を受けたそうです。薄いおせんべいをペロペロなめ、穴を開ける遊びを通じて舌を鍛え、その使い方を学ぶなど、それが訓練ということもよくわからないまま発声の訓練に入ります。その後も五十音の一つひとつを口の形を鏡で映して見ながら覚えたり、それぞれの舌の動きなどに注意したりしながら学びます。例えば「ふ」の形は、「ろうそくをフーッと消して」と学ぶそうです。聞こえる子供たちが自然に覚えていくことを、聞こえない子供たちはそんな苦労をしながら覚えていくのです。
    その後、Fさんは難聴学級のある小学校に通いましたが、3年生からは地元の小学校に転入しました。今でこそ、障害のある子供が地域の小学校に通うこともが普通になりつつありますが、その当時はまだ高いハードルがありました。Fさん自身、とても不安でしたし、同級生も、初めて障害のある子が転入してくるということで物珍しかったらしく、他のクラスからわざわざ様子を見に来る子がいたり、一部の男の子たちからは、聞こえないことをからかわれ、いじめられたりすることもありました。けれども一方では仲の良い友達もできて、大人になった今でも交流が続いています。
    地元の中学を卒業後は、将来を考え、高校、大学へと進学することになりました。大学時代のFさんは、自らも障害があることから、障害のある人を支援する仕事に就きたいと思い始めていました。スポーツ好きだったこともあり、名東区にある障害者スポーツセンターに通って水泳を楽しむようになりました。そこで自分以外のさまざまな障害のある人に関わったことは、彼女の世界を広げました。また、大学では、同じ聴覚障害のある学生たちが積極的に活動する様子をみて刺激を受け、これまで消極的だった自分を見つめなおす機会を得ました。このような経験を重ねたことで、福祉の仕事に就きたいという気持ちがさらに強まったそうです。

    水泳を楽しむ様子

    Fさんは大学に入学してから手話を学びはじめました。それまでのFさんのコミュニケーション手段は、口話の読み取りが主でした。実際に、小、中学校、高校までは先生の口話を読み取るように努力していましたが、難しく、授業のほとんどは予習、復習と、友人たちの助けを借りながら乗り切りました。大学に入り、学生のボランティアがノートテイクや手話通訳をしてくれるようになると、Fさんはコミュニケーション手段を増やすためにも手話が必要だと感じたのです。
    また就職について考え始めたFさんは、聾学校の教師を志すようになりました。しかし当時は、障害のある人が教員採用試験を受けることすら難しい時代で、教員になることは断念せざるをえませんでした。当時はバブル好景気だったこともあり、聴覚障害のある人の多くが大企業に就職していました。そんな様子を見て、どんな仕事に就くか迷うこともありましたが、長年の夢であった障害のある人を支援する仕事をあきらめることはできませんでした。

    手話で友人と話している様子

    しかし、福祉の世界での就職活動も簡単ではありませんでした。利用者とどう関わるのか、利用者家族とはどのようにコミュニケーションをとるのか・・・常にコミュニケーションのことが壁になりました。そこで、Fさんはさまざまなボランティア活動に取り組むなかで、自らの能力を周囲に知ってもらうよう努めました。重度障害のある人のパート介助職の求人情報を大学で見つけたのは、そんな時でした。ボランティア活動の経験から、自分にもできるのではないかと考え応募し採用されました。そこでの仕事は、自ら言葉を発することが困難な重度障害者の方の介助が中心でした。利用者の声が聞こえない代わりに、常に注意して表情を読み取るようにしていました。利用者とのコミュニケーションは大変でしたが、それにもまして同僚や利用者家族とのコミュニケーションに苦労したと言います。同僚にお願いをして、会議の内容や申し送りをメモにするなど、配慮してもらいました。この職場での日々は、今の仕事をする上でも貴重な経験となっているそうです。

    重度の車椅子利用者に食事介助している様子

     

    ここでの活動が3年ほど経過した頃、聴覚障害者の支援を行なっている名身連で職員募集をしていることを知りました。名身連については、学生時代に全国障害者スポーツ大会に出場した際にも関わりがあり、よく知っている法人でした。また、もともと聾学校の教員を志していたFさんにとっては将来、聴覚障害者の支援に関われるかもしれないという期待もあって応募。名身連に転職することになりました。当初はそれまでの実績を買われ、デイサービスの職員として勤務しましたが、平成4年に名身連福祉センターの建設に伴う聴覚言語障害者情報提供施設(略省 名身連聴言センター)のリニューアルに際して異動し、やがて所長という職名を得たのです。
    現在は管理者として、聴言センターの事業全体を総括しながら、聴覚障害者の相談にのったり、通訳者など支援者に対するアドバイスをしたりしています。また、企業や学校、地域に出向き、聴覚障害者に対する理解を促すための啓発活動も行なっています。一方、当事者として聴覚障害者の声を行政に届ける役割も積極的に担っています。
    なかでも、平成28年6月よりスタートした24時間救急手話通訳者派遣事業は、地域の聴覚障害者からの強い要望を受け、自らも聴覚障害者として必要性を感じて取り組んだ事業です。行政と共に実現に向けて整備に関わった結果、ようやく制度化されました。これからも障害当事者の視点から、地域の方々と共により良い社会を目指して活動していくことを忘れずに、頑張っていきたいと話しています。

    多くの人の前で手話を教えている様子

     

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