名身連物語

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  • 喫茶モア 第4回「焼きそば」

    2018年3月15日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • Mさんの人生いろいろ

    2018年3月14日 自立・活動・交流
    Mさん 手話通訳者
    Mさんの人生いろいろ

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 喫茶モア 第3回「ピラフ」

    2018年2月3日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • ファッションショーで新しい自分に出会う

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Aさん(元第一WD利用者) 肢体障害
    ファッションショーで新しい自分に出会う

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 喫茶モア 第2回「ミックスサンド」

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • 喫茶モア 第1回「イタリアン」

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • 喫茶モア~開店準備中~

    2018年1月11日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
    喫茶モア~開店準備中~

    「喫茶モア」は、昭和56年の名古屋市障害者スポーツセンター開所と同時にセンター内に店開きした喫茶店の名前です。それから平成21年までの28年間にわたり営業していました。名古屋市障害者スポーツセンターは全国的にみても長い歴史のあるスポセンです。近隣に障害者専用のスポーツ施設がなく、多くの障害のある人たちが熱心に通ってきていました。地下鉄の本郷駅からは名身連の運行する送迎バスも走っていたので、今も昔も毎日500人近く(平成20年1日平均約472人)の人たちが利用する大規模な施設です。トレーニングルーム、プール、卓球室、STT(視覚障害者卓球=サウンドテーブルテニス)室などで各々の目的に応じて体を動かしたあとは、モアの美味しいランチやコーヒーを一緒に楽しみながら、おしゃべりに花が咲きました。名身連の会員であるHさんは、モアのママとして働きながら、数え切れないくらいたくさんの人たちと言葉を交わし、いろいろなできごとをかたわらで見守ってきました。彼女がそっと胸にとどめるエピソードを、当時のレシピと一緒にお届けできたら。そんな思いで、懐かしいメニューの作り方をHさんに教えていただいてレシピにすることと、素敵な昔語りをちょっぴり再現させていただくことにお許しをいただきました。

    ※名古屋市障害者スポーツセンターについての記述は、障害保健福祉研究情報システムHP掲載の論文(http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n337/n337007.html)を参考にさせていただきました。

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  • 40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    2017年3月9日 自立・活動・交流
    Dさん40代 脳血管障害
    40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    名身連第二ワークス・第二デイサービス生産活動(生産活動あり)→就労継続B型

    Dさんはかつて熱血営業マンでした。1年のうち300日は飛行機や車で出張しており、たまにしか自宅に戻らない日々。一人暮らしで生活も不規則になりがちでしたが、病気をしたことはなく、さほど健康に気を使わず過ごしていました。

    Dさんが、バリバリ働いている様子
     

    そんなDさんでしたが、あるとき出張先の東北から名古屋に帰る飛行機の中で意識を失いました。脳出血でした。飛行機がまだ離陸していなかったことが幸いし、そのまま仙台市内の病院に運ばれました。救急車の中で、救急隊員に声をかけられたことまでは覚えていたDさんですが、次に意識が戻った時には病院のベッドの上でした。鼻には管が入っていて息苦しく、言葉が上手く出てきません。おまけにベッドから落ちる危険があったため体がベルトで固定されていました。それでもお医者さんはDさんにこう告げたのです。
    「飛行機が離陸して空の上であれば、気圧が下がっていてもっと出血がひどかったかもしれない。また車の運転中であれば事故を起こしていたかもしれない。どちらにしても命を落としていただろう」と。
    その時Dさんは、拾った命をこれからは大切にしようと思いました。

    Dさんが、救急車で運ばれる様子。または、ベッドの上に点滴をうたれ寝ている様子
     

    二週間後には仙台市内の病院を退院して名古屋に戻り、2回の転院をした後、リハビリ施設で生活訓練を行なうことになりました。言語障害も少しずつ回復し、日常会話をすることにも慣れてきました。しかし以前のような働き方をすることは難しく、退職することになりました。それまでの生活を一新し、一人暮らしを再開するための家探しもしました。
    新しい生活に慣れ、障害年金で経済的にもなんとか暮らしていけるようになったDさんですが、自宅でボーッとする時間が増えてきました。介護保険施設の利用も考えましたが、Dさんはまだ40代。70代以上の利用者さんが多い介護施設では、話の合う人がなく、通う気になれませんでした。
    「自分は何をしているのだろう」「このまま社会から取り残されるのだろうか…」
    Dさんは、とても不安になりました。

    Dさんが、不安な表情で社会から孤立している様子
     

    訓練施設で一緒だった40代の仲間が障害者福祉施設で働いている、と聞いたのはそんな時でした。その人も元は運転手としてバリバリ働いていましたが、福祉施設では全く別の仕事を得て、生き生きと働いていました。その人からの勧めもあって、Dさんは自ら、名身連の施設に電話をかけました。見学に行ってみると、自分と同じような障害の人も、もっと若い人も、それぞれの仕事をもって働いていました。その様子を見て、「これなら自分にもできるかもしれない」と思い、施設に通うための通所訓練を始めました。
    その成果もあり、現在は一人で地下鉄を乗り継いで、週5日休むことなく、雨の日も車椅子用のカッパを着用して通所しています。
    当初は通所の疲労もあり生活介護(生産活動あり)に所属していましたが、通所にも慣れ、働く意欲が高まったところでステップアップし、就労継続支援B型に通うようになりました。今ではチームで行なう仕事を任され、リーダーとして生き生きと働いています。
    Dさんは言います。「恥ずかしい話だが、発病して最初のころは泣いてばかりいた。でもそんな生活を送っていてもしようがない、生きているうちはなんとか生きていかなくてはいけない、と考えを切り替えた。初めは行き場所があるというだけで十分に思えたが、今は自分のことだけでなく、若い人に伝えてゆくことを考えている。その中で、教えるだけでなく、逆に教わることもある。もらえるお金はわずかだが、介護保険ではお金を払わなければならない。お金をもらってリハビリしているつもりでいる」。
    今では、施設の説明会や見学者の対応なども担当してくださるなど、持ち前の営業マン精神が復活しているようです。

    車椅子に乗ったDさんが、大勢の前で自信をもってお話ししている様子

    イラスト協力@愛知淑徳大学 交流文化学部 福﨑 里彩 さん

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