名身連物語

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  • 障害を意識せずに過ごした幼少期、とにかく楽しかった青春時代~当事者とつながり過ごした日々

    2019年2月18日 自立・活動・交流
    Nさん(名身連会員)70代男性 肢体障害
    障害を意識せずに過ごした幼少期、とにかく楽しかった青春時代~当事者とつながり過ごした日々

     

     

     

     

     

     1945年(昭和20年)、三重県で生まれたNさん。3歳のある朝のことでした。布団から起きて立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず、立ち上がれないのです。それでも机につかまってなんとか立ち上がろうとするものの倒れてしまい、立ち上がれません。昨夜までは、何も変わった様子はなかったこともあり、親も最初はNさんがふざけているのではないかと思いました。しかし、そうではないことに気づき慌ててNさんを連れて病院に駆け込みました。Nさんは、当時3歳だったこの時の記憶を、70歳過ぎた今でも鮮明に覚えています。
     地元の病院では治療ができないと言われ、2日がかりで大阪の病院に向かい、受診しました。新幹線のない当時は、身動きが取れないほど込み合った列車を何度も乗り継いで移動するほかありませんでした。車中でお父さんは幼いNさんがお腹をすかさないよう、自宅でにぎったおにぎりを手渡そうとしましたが、途中で誰かに奪いとられてしまいました。お父さんは仕方なくNさんを連れて途中下車し、駅でおにぎりを食べました。戦後の復興途上の日本は、まだまだこのような状況でした。
     その後、両親はNさんのためにずいぶんお金を使いました。成人後、「お前は身上潰したな」と言われましたが、両親の愛情と努力の甲斐あって、Nさんはなんとか歩けるようになりました。しかし、足には障害が残りました。

     Nさんが通う地元の小学校で、障害のある子どもはNさんだけでした。しかしNさんは障害を意識することなく、元気に友達と野山を駆け回っていました。男ばかりの三人兄弟の真ん中ということもあり、両親も足に障害があることを気にせず他の兄弟と同様に好きなようにさせてくれました。Nさんを当時はかなりのやんちゃで、友達とよくイタズラをしましたが、村で足に障害のある子はNさんだけ。走って逃げていく姿で大人たちにはすぐにNさんだとばれてしまい、後からずいぶん叱られました。とにかく元気でスポーツも大好きなわんぱくな少年でした。
     このような幼少期の家庭や地域の環境は、Nさん自身に障害があることを意識させませんでした。このことが、障害をマイナスに捉えない今のNさんを作っているのかもしれません。唯一、Nさんが障害を意識したのは、運動会での徒競走でした。負けず嫌いのNさんは、走るみんなの後ろ姿を追って必死に走りました。その時の悔しかった気持ちは今でも覚えています。

     成人したNさんは、仕事の関係で名古屋に暮らすようになりました。26歳の時、中区でひとり暮らしをしていたNさんは、たまたまラジオから流れてきた「障害者の水泳大会に参加しませんか」という情報を耳にしました。もともとスポーツ好きで一人でプールに通っていたほど。すぐに区役所に出向き説明を受けました。障害者手帳を小学生の時に取得していたこともあり、すぐその場で申し込みをし、大会に出場しました。そして、なんと初めて参加した水泳大会で優勝したのです。当時役員として出席していた名身連の池田会長と出会ったのもそのときでした。大会に参加したことで、これまであまり障害のある人との関わる機会がなかったNさんは、自分以外にもたくさんの障害のある人がいるということを知りました。
     Nさんは、1974年(昭和49年)に茨城県で開催された全国身体障害者スポーツ大会の代表にも選ばれました。開会式に出席されていた当時の皇太子妃美智子妃殿下が、参加者や観衆に美しく手を振られる姿が今でも目に焼きついています。何より美智子妃殿下が自分に向けて手を振ってくださったように思え、感激しました。

     あるとき、名身連の会員Yさんから「名身連に入りませんか」という電話がありました。Nさんは、スポーツ大会で名身連のことを知っており、活動に興味はありましたが一人暮らしで経済的にも厳しかったため、会費のことが気になりました。年会費600円だと聞き、それなら大丈夫だと加入を承諾したところ、その日の夜にYさんが自宅まで会費を取りに来てくれました。そこまで親切に対応してくれたYさんに感謝し、そこからいろんな障害のある人と関わるようになりました。運転免許を取得していたNさんは、積極的に会員の人たちの足代わりを引き受けます。まだ免許が無かったころ、周りの人がいつも声をかけて車に乗せてくれたことが心に残っていたからです。Nさんは、これまで自分を気にかけてくれた人たちや、最初に名身連に誘ってくれたYさんが自分にしてくれたような対応を他の人にもするように心がけています。旅行に行ったり、スポーツをしたり、障害のある仲間と語り合い、笑い合いました。とにかく楽しくて仕方ありませんでした。
     身体障害者各区対抗のソフトボール大会にも出場して活躍しました。当時、名身連では各区対抗のソフトボール大会が開かれており、そこで優勝したチームが政令指定都市身体障害者ソフトボール大会に派遣されました。Nさんは、毎年のように派遣選手として出場していました。名古屋チームは政令指定都市身体障害者ソフトボール大会において、いつも優勝か準優勝でした。そのため他都市からとんでくる声は「打倒名古屋」だったほどです。

     時は流れ、Nさんも結婚し、仕事や子育てに追われていましたが、名身連の仲間との活動は継続していました。そして今Nさんは区身障協会・部会の役員として地域で生活する障害のある仲間のため、困りごとの相談や悩みの傾聴、交流の場づくりなど、いまだ奮闘しています。スポーツも続け、週に3~4回は名東区の障害者スポーツセンターに通い、健康維持を心がけています。またグランドゴルフ同好会を作り、肢体障害者だけでなく聴覚障害の人とも一緒に汗を流しています。名身連と出会って46年、今も変わらず地域の仲間と共に語らい、せっせと動きまわっているNさんなのです。

     

     

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  • 障害があってもなくても 人の役に立つのは「気持ちいい!」 ~保険の営業マンIさんが点字名刺の営業マンに

    2018年8月28日 自立・活動・交流
    Iさん ボランティア
    障害があってもなくても 人の役に立つのは「気持ちいい!」 ~保険の営業マンIさんが点字名刺の営業マンに

     

     

     

     

     

     

    出会いは偶然でした。
    その日、保険の営業マンIさんは、当時ウィルあいち館内にあったフェアトレードショップ「風‘s(ふうず)」に立ち寄りました。
    ちょうど第二ワークス(現 名身連第二ワークス・第二デイサービス)の職員が納品をしているところでした。
    まだ第二ワークスが身体障害者通所授産施設と呼ばれていた頃のことです。
    職員が並べようとしている自主製品の「押し花グッズ」に目をとめたIさんは、「ステキな商品ですね」と声をかけました。

    さすが営業マン。Iさんは人柄もよく聞き上手で、出会ったばかりなのに話が弾みます。
    「これ、ひとつひとつ手作りなんですよ」
    職員は、押し花がアレンジされた品物を手に、それを作った聴覚障害のある利用者さんの話をしました。
    それから第二ワークスのことも。
    障害のある人たちが就職を目指したり生きがいを求めて通ってきたりするようすを、気がつくと熱心にIさんに語っていました。
    ひとしきり話して名刺交換。
    職員の名刺には点字が印刷されていました。これがもう一つの「出会い」でした。

    見慣れない名刺に興味を引かれた様子のIさんに、職員は説明しました。
    「これは点字です。印刷しているのは障害のある利用者さんです。
    名刺だと、点字を知らない方にも見てもらえて普及につながるので」
    それを聞くなり、Iさんは尋ねました。
    「僕の名刺にも点字入れられますか?」
    「大丈夫です。お手持ちの名刺にそのまま印刷できます!」
    福祉と無縁に見える人が、いきなりこんな申し出をしてくれるなんて。
    初めての経験に驚きながらも、その場で商談成立です。

    早速Iさんから名刺を託され、その一週間後には納品となりました。
    点字名刺を受け取ったIさんからは、さらなる、そして思いもかけない言葉が。
    Iさんの勤め先の保険会社で毎月全体会議があるので、そこで点字の名刺をPRしてみたら、というお誘いでした。
    第二ワークスのことも紹介できる機会とあって、喜んでお受けすることになったのです。

    全体会議当日、集まった100人もの男性営業マンさんを前に、第二ワークスの職員が点字名刺のPRをし、施設のこと、そこで働く利用者さんのことを話しました。
    そしてIさんも、「名刺は営業マンの顔。点字を印刷することで、障害のある人の仕事づくりにつながるばかりでなく、受け取った人の記憶に残る名刺になります」とアピールしてくれました。
    特に第二ワークスには病気や事故による中途障害の方が多く、保険という仕事を通じて人生を支える営業マンには深く響くものがあった。
    これは後からIさんが教えてくれたことです。

    Iさんが宣伝してくれたおかげで点字名刺を注文してくれる営業マンさんが増えてくると、今度は会社での注文窓口をボランティアで引き受けてくれたIさん。
    取次ぎ役として月に2回は、仕事の合間をぬって第二ワークスに立ち寄るようになりました。

    Iさんはそのまま何年も通い続け、点字名刺を担当していた利用者Bさんとすっかり顔なじみになりました。
    Iさんとの交流を通じてBさんは、点字名刺の仕事に自信と誇りがもてるようになり、職員がいなくても直接Iさんと打ち合わせができるくらい積極的になりました。
    5年ほど経ったころには、毎月Iさんの会社に自ら納品に行くようにもなりました。
    初めのうちは不安顔だったBさんもだんだん慣れ、気心の知れたIさんのもとに行くことが楽しみになっていました。
    こんなやりとりが10年ほど続きました。

    その後Bさんは自宅近くの高齢者施設へ移られました。Iさんもご家族の介護などで以前よりは仕事をセーブされていますが、現在でも点字印刷の依頼で第二ワークス・第二デイサービスを訪ねてくださいます。
    ウィルあいちでの出会いからすでに20年。
    今でこそ視覚障害のある人への合理的配慮として点字名刺の依頼も増えていますが、Iさんはそのずっと前、点字名刺に出会うや否や点字名刺を手にし、その営業マンとして普及活動に飛び込んでくださいました。

    Iさんは言います。

      私の仕事、保険の営業を継続してゆくには「人との出会い」が重要で、
      当初は単純に「珍しい」→「記憶に残る」ということで、
      自身のアピール(営業活動)みたいなところはありました。

      しかし。

      長年にわたり携わっていくうちに、私の行動が、
      Bさんにとっての大切な「仕事」になり、
      それがBさんにとっての大切な「やりがい」になり、喜ばれている・・・
      そのことが年を追うごとに、私自身に実感されるようになりました。
      すると、私も何だか心が「ほっこり」喜んでいるのを感じたのです。

      なんだ、
      営業でもボランティアでも
      障害がある人もない人も
      誰かの役に立つのは「気持ちいい」
      みんなそこのところは一緒なんだ!

      そんなことに、あらためて気付かされた
      「第2ワークス」さんと「Bさん」との出会いでした。

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  • 喫茶モア 第4回「焼きそば」

    2018年3月15日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • Mさんの人生いろいろ

    2018年3月14日 自立・活動・交流
    Mさん 手話通訳者
    Mさんの人生いろいろ

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 喫茶モア 第3回「ピラフ」

    2018年2月3日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • ファッションショーで新しい自分に出会う

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Aさん(元第一WD利用者) 肢体障害
    ファッションショーで新しい自分に出会う

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 喫茶モア 第2回「ミックスサンド」

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • 喫茶モア 第1回「イタリアン」

    2018年1月12日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
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  • 喫茶モア~開店準備中~

    2018年1月11日 自立・活動・交流
    Hさん(名身連会員) 肢体障害
    喫茶モア~開店準備中~

    「喫茶モア」は、昭和56年の名古屋市障害者スポーツセンター開所と同時にセンター内に店開きした喫茶店の名前です。それから平成21年までの28年間にわたり営業していました。名古屋市障害者スポーツセンターは全国的にみても長い歴史のあるスポセンです。近隣に障害者専用のスポーツ施設がなく、多くの障害のある人たちが熱心に通ってきていました。地下鉄の本郷駅からは名身連の運行する送迎バスも走っていたので、今も昔も毎日500人近く(平成20年1日平均約472人)の人たちが利用する大規模な施設です。トレーニングルーム、プール、卓球室、STT(視覚障害者卓球=サウンドテーブルテニス)室などで各々の目的に応じて体を動かしたあとは、モアの美味しいランチやコーヒーを一緒に楽しみながら、おしゃべりに花が咲きました。名身連の会員であるHさんは、モアのママとして働きながら、数え切れないくらいたくさんの人たちと言葉を交わし、いろいろなできごとをかたわらで見守ってきました。彼女がそっと胸にとどめるエピソードを、当時のレシピと一緒にお届けできたら。そんな思いで、懐かしいメニューの作り方をHさんに教えていただいてレシピにすることと、素敵な昔語りをちょっぴり再現させていただくことにお許しをいただきました。

    ※名古屋市障害者スポーツセンターについての記述は、障害保健福祉研究情報システムHP掲載の論文(http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n337/n337007.html)を参考にさせていただきました。

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  • 40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    2017年3月9日 自立・活動・交流
    Dさん40代 脳血管障害
    40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    名身連第二ワークス・第二デイサービス生産活動(生産活動あり)→就労継続B型

    Dさんはかつて熱血営業マンでした。1年のうち300日は飛行機や車で出張しており、たまにしか自宅に戻らない日々。一人暮らしで生活も不規則になりがちでしたが、病気をしたことはなく、さほど健康に気を使わず過ごしていました。

    Dさんが、バリバリ働いている様子
     

    そんなDさんでしたが、あるとき出張先の東北から名古屋に帰る飛行機の中で意識を失いました。脳出血でした。飛行機がまだ離陸していなかったことが幸いし、そのまま仙台市内の病院に運ばれました。救急車の中で、救急隊員に声をかけられたことまでは覚えていたDさんですが、次に意識が戻った時には病院のベッドの上でした。鼻には管が入っていて息苦しく、言葉が上手く出てきません。おまけにベッドから落ちる危険があったため体がベルトで固定されていました。それでもお医者さんはDさんにこう告げたのです。
    「飛行機が離陸して空の上であれば、気圧が下がっていてもっと出血がひどかったかもしれない。また車の運転中であれば事故を起こしていたかもしれない。どちらにしても命を落としていただろう」と。
    その時Dさんは、拾った命をこれからは大切にしようと思いました。

    Dさんが、救急車で運ばれる様子。または、ベッドの上に点滴をうたれ寝ている様子
     

    二週間後には仙台市内の病院を退院して名古屋に戻り、2回の転院をした後、リハビリ施設で生活訓練を行なうことになりました。言語障害も少しずつ回復し、日常会話をすることにも慣れてきました。しかし以前のような働き方をすることは難しく、退職することになりました。それまでの生活を一新し、一人暮らしを再開するための家探しもしました。
    新しい生活に慣れ、障害年金で経済的にもなんとか暮らしていけるようになったDさんですが、自宅でボーッとする時間が増えてきました。介護保険施設の利用も考えましたが、Dさんはまだ40代。70代以上の利用者さんが多い介護施設では、話の合う人がなく、通う気になれませんでした。
    「自分は何をしているのだろう」「このまま社会から取り残されるのだろうか…」
    Dさんは、とても不安になりました。

    Dさんが、不安な表情で社会から孤立している様子
     

    訓練施設で一緒だった40代の仲間が障害者福祉施設で働いている、と聞いたのはそんな時でした。その人も元は運転手としてバリバリ働いていましたが、福祉施設では全く別の仕事を得て、生き生きと働いていました。その人からの勧めもあって、Dさんは自ら、名身連の施設に電話をかけました。見学に行ってみると、自分と同じような障害の人も、もっと若い人も、それぞれの仕事をもって働いていました。その様子を見て、「これなら自分にもできるかもしれない」と思い、施設に通うための通所訓練を始めました。
    その成果もあり、現在は一人で地下鉄を乗り継いで、週5日休むことなく、雨の日も車椅子用のカッパを着用して通所しています。
    当初は通所の疲労もあり生活介護(生産活動あり)に所属していましたが、通所にも慣れ、働く意欲が高まったところでステップアップし、就労継続支援B型に通うようになりました。今ではチームで行なう仕事を任され、リーダーとして生き生きと働いています。
    Dさんは言います。「恥ずかしい話だが、発病して最初のころは泣いてばかりいた。でもそんな生活を送っていてもしようがない、生きているうちはなんとか生きていかなくてはいけない、と考えを切り替えた。初めは行き場所があるというだけで十分に思えたが、今は自分のことだけでなく、若い人に伝えてゆくことを考えている。その中で、教えるだけでなく、逆に教わることもある。もらえるお金はわずかだが、介護保険ではお金を払わなければならない。お金をもらってリハビリしているつもりでいる」。
    今では、施設の説明会や見学者の対応なども担当してくださるなど、持ち前の営業マン精神が復活しているようです。

    車椅子に乗ったDさんが、大勢の前で自信をもってお話ししている様子

    イラスト協力@愛知淑徳大学 交流文化学部 福﨑 里彩 さん

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