名身連物語

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  • 40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    2017年3月9日 自立・活動・交流
    Dさん40代 脳血管障害
    40代で中途障害に…まだ、まだやれることはある~新たな人生に向けてのスタート~

    名身連第二ワークス・第二デイサービス生産活動(生産活動あり)→就労継続B型

    Dさんはかつて熱血営業マンでした。1年のうち300日は飛行機や車で出張しており、たまにしか自宅に戻らない日々。一人暮らしで生活も不規則になりがちでしたが、病気をしたことはなく、さほど健康に気を使わず過ごしていました。

    Dさんが、バリバリ働いている様子
     

    そんなDさんでしたが、あるとき出張先の東北から名古屋に帰る飛行機の中で意識を失いました。脳出血でした。飛行機がまだ離陸していなかったことが幸いし、そのまま仙台市内の病院に運ばれました。救急車の中で、救急隊員に声をかけられたことまでは覚えていたDさんですが、次に意識が戻った時には病院のベッドの上でした。鼻には管が入っていて息苦しく、言葉が上手く出てきません。おまけにベッドから落ちる危険があったため体がベルトで固定されていました。それでもお医者さんはDさんにこう告げたのです。
    「飛行機が離陸して空の上であれば、気圧が下がっていてもっと出血がひどかったかもしれない。また車の運転中であれば事故を起こしていたかもしれない。どちらにしても命を落としていただろう」と。
    その時Dさんは、拾った命をこれからは大切にしようと思いました。

    Dさんが、救急車で運ばれる様子。または、ベッドの上に点滴をうたれ寝ている様子
     

    二週間後には仙台市内の病院を退院して名古屋に戻り、2回の転院をした後、リハビリ施設で生活訓練を行なうことになりました。言語障害も少しずつ回復し、日常会話をすることにも慣れてきました。しかし以前のような働き方をすることは難しく、退職することになりました。それまでの生活を一新し、一人暮らしを再開するための家探しもしました。
    新しい生活に慣れ、障害年金で経済的にもなんとか暮らしていけるようになったDさんですが、自宅でボーッとする時間が増えてきました。介護保険施設の利用も考えましたが、Dさんはまだ40代。70代以上の利用者さんが多い介護施設では、話の合う人がなく、通う気になれませんでした。
    「自分は何をしているのだろう」「このまま社会から取り残されるのだろうか…」
    Dさんは、とても不安になりました。

    Dさんが、不安な表情で社会から孤立している様子
     

    訓練施設で一緒だった40代の仲間が障害者福祉施設で働いている、と聞いたのはそんな時でした。その人も元は運転手としてバリバリ働いていましたが、福祉施設では全く別の仕事を得て、生き生きと働いていました。その人からの勧めもあって、Dさんは自ら、名身連の施設に電話をかけました。見学に行ってみると、自分と同じような障害の人も、もっと若い人も、それぞれの仕事をもって働いていました。その様子を見て、「これなら自分にもできるかもしれない」と思い、施設に通うための通所訓練を始めました。
    その成果もあり、現在は一人で地下鉄を乗り継いで、週5日休むことなく、雨の日も車椅子用のカッパを着用して通所しています。
    当初は通所の疲労もあり生活介護(生産活動あり)に所属していましたが、通所にも慣れ、働く意欲が高まったところでステップアップし、就労継続支援B型に通うようになりました。今ではチームで行なう仕事を任され、リーダーとして生き生きと働いています。
    Dさんは言います。「恥ずかしい話だが、発病して最初のころは泣いてばかりいた。でもそんな生活を送っていてもしようがない、生きているうちはなんとか生きていかなくてはいけない、と考えを切り替えた。初めは行き場所があるというだけで十分に思えたが、今は自分のことだけでなく、若い人に伝えてゆくことを考えている。その中で、教えるだけでなく、逆に教わることもある。もらえるお金はわずかだが、介護保険ではお金を払わなければならない。お金をもらってリハビリしているつもりでいる」。
    今では、施設の説明会や見学者の対応なども担当してくださるなど、持ち前の営業マン精神が復活しているようです。

    車椅子に乗ったDさんが、大勢の前で自信をもってお話ししている様子

    イラスト協力@愛知淑徳大学 交流文化学部 福﨑 里彩 さん

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  • 思いがけない転機~「新人くん」から中堅職員へ~

    2017年3月9日 働く
    名身連旅行センター職員・Eさん 名身連職員
    思いがけない転機~「新人くん」から中堅職員へ~

    Eさん(男性・28歳)が初めて名身連の名前を知ったのは、4年前就職フェアに足を運んだ時。何だか心惹かれて、気がつくとそのブースに座り込んで担当者にいろいろ質問していたそうです。初対面の人と話すときには緊張して、何をしゃべっていいか分からなくなってしまう彼にしては珍しいことでした。

    スーツを着て緊張顔の若い男性Eさんが、名身連と書かれたブースで女性職員と向かい合って、一生懸命話そうとしている
     

    採用試験の結果、みごと正職員として採用されたものの、福祉の仕事は初めて。いったい何をどうしていいやら、なかなか要領がつかめません。障害者施設の現場は日々大忙し。てきぱき動く先輩職員たちをしり目に、新人Eさんは日常業務を覚えるだけで精一杯でした。仕事でミスをしては、「ごめんなさい」と頭を下げることもたびたび。でも、器用ではないなりに一生懸命取り組む姿に、不思議と手が差し伸べられるのです。同期で入った職員ともすっかり打ち解け、部署が離れていても仕事上のアドバイスを受けたり、新しい企画の相談相手になってもらったり。Eさんを中心に何となく人の輪ができあがってゆきます。

    ファイルを胸に抱え、汗をかき、困った顔をして一生懸命仕事をしているEさん 若い男性の同僚3人と、笑顔で話しているEさん
     

    そんな彼にとって大きな転機が訪れたのは2年前。名身連が収益事業として運営している旅行センターの担当として、事務局に異動になったのです。旅行業務取扱管理者という資格をもっていたからなのですが、実務は初めて。最初はホテルやレストランに電話ひとつかけるのにもドキドキして、一度に全部の用を済ませることができず、何度もかけ直したりしました。手配も、打ち合わせも、他の職員と相談しながら、手伝ってもらいながら、とにかく必死にこなすだけでした。当事者団体の旅行センターだけあって、障害者の全国大会の手配など大きな仕事も入り、業務量はどんどん増えました。
    そのかたわら名身連の職員研修やQC活動などに参加して研鑚を積み、プライベートでは福祉の資格取得のための勉強も始め、毎日が飛ぶように過ぎていきました。ひとつ仕事の山を越えるたびに、ほ~っと息をつくと同時に、たくさんの学びを得て、次に活かしたEさん。障害のあるお客様と毎日かかわるうちに、苦手だったコミュニケーションもうまくとれるようになっていました。旅行センターのオリジナルツアーの企画も軌道にのせ、たくさんのお得意様ができ、手ごたえとやりがいを感じるようになってきたこの頃なのです。

    山積みの書類の横で、電話しているEさん…カット②よりしっかりした顔 ・ツアーの旗を持ってバスの横でにこにこしているEさんとツアーのお客(車いす)
     

    先日、名身連の入社式で先輩職員としてのスピーチをしました。そのなかでEさんは、「名身連では必ず仕事のフォローをしてもらえるので、頑張ることができます。みなさんも名身連でさまざまなことにチャレンジしてください」と、後に続く人たちにエールを贈りました。「新人くん」はすっかり中堅職員へと成長し、これからもチャレンジの毎日です。

    演台の前で堂々としたようすでスピーチしているEさん 手前にスーツ姿で着席している男女の新入職員の後ろ姿

    イラスト協力@愛知淑徳大学 創造表現学部 学生さん

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  • お雛様にこめられた思い~短い青春を精一杯駆け抜けたEさん

    2017年2月20日 その他
    Eさん 元名身連利用者 享年20代 女性 脳性まひ
    お雛様にこめられた思い~短い青春を精一杯駆け抜けたEさん

    3月3日が近づくと毎年、名身連福祉センター(中村区)の玄関前にきれいなお雛様が飾られます。この時期になると誰もがうっとりとみとれるお雛様です。このお雛様を名身連に寄贈してくださったのは、名身連第二ワークス・第二デイサービス(旧名身連第二ワークス)の今は亡きご利用者Eさんのご家族です。
    Eさんは、平成6年に特別支援学校を卒業後、名身連第二ワークスを利用してくださっていました。最初は特別支援学校在学中に第二ワークスで施設実習を行い、そのなかで学校時代にできること、卒業後に目指すことを定めて、ご利用が始まりました。

    在学中のEさんの傍らには、いつもお母さんが付き添っていました。けれども第二ワークスのような施設は学校とは違うところです。これからは一人の大人として自覚をもってやっていくことを目標にしたEさんは、オリエンテーションや実習に一人で参加して頑張りました。むしろお母さんのほうがEさんを心配してオロオロしていたくらいです。そんな心配をよそにEさんは立派に実習をやり遂げ、卒業後に正式に第二ワークスを利用することになりました。


    ショートカットでやせた背の高い女の子(ブレザーの制服着用)の横にお母さん(少し丸顔でメガネをかけている)がいて、お母さんは心配そうな顔をしている

    第二ワークスに通い始めたばかりのEさんは、仕事の経験がまったくないうえ、年上の人たちと関わるのも初めてでした。特別支援学校では、学生数もそれほど多くないので、気心の知れた友人や先生たちに囲まれて過ごしていました。自分から何か頼んだり伝えたりしなくても、気持ちを察して手をさしのべてくれる人がいたのです。けれども新しい環境や人間関係のなかでは、自分から声を出して伝え、人との関係を築いてゆかなければなりません。ゆくゆくは地域の中で生活するともなれば、なおさらそのような機会も増えていきます。
    そんな変化に少し戸惑うこともあったEさんでしたが、あるとき、施設のなかでコップを洗う役割を引き受けることになりました。みんなが使ったあとの湯のみコップを集め、消毒薬で消毒して並べるという仕事でした。それだけではありません。消毒薬が減ったら自分から職員に伝え、付き添ってもらって買いに行きました。買い物に行ったら、お金とレシートを確認することも身につきました。この役割を担うことでEさんは少しずつ自信をつけ、積極的になりました。

    Eさんがニコニコとコップを洗う様子
     

    Eさんはスポーツでも活躍しました。学生時代に名東区の障害者スポーツセンターで水泳をしていたEさんは、第二ワークスで自信がついたこともあり、障害者スポーツの全国大会出場に向けた選考会にチャレンジし、みごと出場権を得たばかりか、本大会ではメダルまで獲得することができました。
    仲良しのボーイフレンドもできて、休みの日にはみんなでカラオケに行って楽しむことも。Eさんはいつも笑顔で、仕事もプライベートも充実し、生き生きとした毎日を過ごしていました。

    ボーイフレンドや友人と楽しく語らっている様子
     

    その日もEさんは、いつもどおりに第二ワークスに来て、作業や担当していた役割を終え帰宅しました。家に戻ったEさんを、いつものようにお母さんが出迎えました。しかし、Eさんの様子は少し違っていました。お母さんの顔を見てホッとしたのか、そのまま倒れてしまったのです。すぐに救急車で運ばれ入院しましたが、危篤状態でした。そのことを聞いた施設の職員や友人たちは、ついさっきまで元気だったEさんの姿を思い出すと信じられず、心配で胸がつぶれる思いでした。
    早く元気に戻ってきてほしいというみんなの祈りもむなしく、数日後にEさんは短い人生の幕を閉じました。彼女の葬儀には、第二ワークスの利用者や職員をはじめ、たくさんの人が参列しました。しかもその多くがEさん本人に関わりのあった人たちで、ご両親もEさんの交流の広さに改めて驚いたそうです。

    お葬式の様子
     

    Eさんが亡くなった後、ご家族から「短い人生だったけれど、精一杯に生きた人生だった。娘は第二ワークスが大好きだったので、いつまで第二ワークスにいられるように」と、お雛様寄贈のお申し出がありました。それが福祉センターに飾られるお雛様なのです。
    時は流れ、今ではEさんのことを知っている人も少なくなりましたが、お雛様はいつもやさしいお顔で第二ワークスを見守ってくれています。Eさんのお母さんも、年賀状印刷の時期にはいつも、多くの印刷の注文をとりまとめて下さり、第二ワークスのために尽力して下さっています。
    もしあなたが、名身連福祉センターのお雛様を見る機会があれば、精一杯生きたEさんというご利用者がいたこと、そして彼女がいつまでも見守ってくれていることに思いをはせていただけると幸いです。

    福祉センターに毎年飾るEさんのお雛様の画像
     

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  • 福祉の現場で管理者に…聴覚障害のある職員がたどってきた道のり

    2017年1月20日 コミュニケーション
    Fさん 名身連職員 50代 女性 聴覚障害
    福祉の現場で管理者に…聴覚障害のある職員がたどってきた道のり

    Fさんが聴力を失ったのは、まだ言語を獲得する前の3歳の時でした。原因は不明でした。聴力を失った幼い女の子が、話したり書いたりできるようになるということは、想像を絶する困難を伴います。なにより家族の熱心な教育があったからこそ、今の彼女があると言っても過言ではありません。まるでヘレンケラーに言葉があるということを教えたサリバン先生のように、家中の家具や物にペタペタと紙が貼られ、一つひとつに名前があることを教えられたそうです。想像して下さい。私たちが外国語を覚えるのと同じように、全ての単語を覚えなければならないのです。しかも、それは耳からは入らない情報であり全て目で見て覚えていくのです。

    幼い女の子が紙の貼られたテレビを指差して覚えている様子

    物に名前があることを知った後も、習得しなければならないことがありました。発声訓練です。聞こえる人は、自分の声や他の人の声を聞いて、単語を知るのと同時に発声を学びます。お母さんが、「マンマ」と言うと赤ちゃんが「マンマ」と繰り返し、自然に発声を学んでいきます。けれども聞こえない人は、特別な訓練を受けて発声を学ぶ必要があります。幼い彼女は、聾学校の幼稚部、小学部でその訓練を受けたそうです。薄いおせんべいをペロペロなめ、穴を開ける遊びを通じて舌を鍛え、その使い方を学ぶなど、それが訓練ということもよくわからないまま発声の訓練に入ります。その後も五十音の一つひとつを口の形を鏡で映して見ながら覚えたり、それぞれの舌の動きなどに注意したりしながら学びます。例えば「ふ」の形は、「ろうそくをフーッと消して」と学ぶそうです。聞こえる子供たちが自然に覚えていくことを、聞こえない子供たちはそんな苦労をしながら覚えていくのです。
    その後、Fさんは難聴学級のある小学校に通いましたが、3年生からは地元の小学校に転入しました。今でこそ、障害のある子供が地域の小学校に通うこともが普通になりつつありますが、その当時はまだ高いハードルがありました。Fさん自身、とても不安でしたし、同級生も、初めて障害のある子が転入してくるということで物珍しかったらしく、他のクラスからわざわざ様子を見に来る子がいたり、一部の男の子たちからは、聞こえないことをからかわれ、いじめられたりすることもありました。けれども一方では仲の良い友達もできて、大人になった今でも交流が続いています。
    地元の中学を卒業後は、将来を考え、高校、大学へと進学することになりました。大学時代のFさんは、自らも障害があることから、障害のある人を支援する仕事に就きたいと思い始めていました。スポーツ好きだったこともあり、名東区にある障害者スポーツセンターに通って水泳を楽しむようになりました。そこで自分以外のさまざまな障害のある人に関わったことは、彼女の世界を広げました。また、大学では、同じ聴覚障害のある学生たちが積極的に活動する様子をみて刺激を受け、これまで消極的だった自分を見つめなおす機会を得ました。このような経験を重ねたことで、福祉の仕事に就きたいという気持ちがさらに強まったそうです。

    水泳を楽しむ様子

    Fさんは大学に入学してから手話を学びはじめました。それまでのFさんのコミュニケーション手段は、口話の読み取りが主でした。実際に、小、中学校、高校までは先生の口話を読み取るように努力していましたが、難しく、授業のほとんどは予習、復習と、友人たちの助けを借りながら乗り切りました。大学に入り、学生のボランティアがノートテイクや手話通訳をしてくれるようになると、Fさんはコミュニケーション手段を増やすためにも手話が必要だと感じたのです。
    また就職について考え始めたFさんは、聾学校の教師を志すようになりました。しかし当時は、障害のある人が教員採用試験を受けることすら難しい時代で、教員になることは断念せざるをえませんでした。当時はバブル好景気だったこともあり、聴覚障害のある人の多くが大企業に就職していました。そんな様子を見て、どんな仕事に就くか迷うこともありましたが、長年の夢であった障害のある人を支援する仕事をあきらめることはできませんでした。

    手話で友人と話している様子

    しかし、福祉の世界での就職活動も簡単ではありませんでした。利用者とどう関わるのか、利用者家族とはどのようにコミュニケーションをとるのか・・・常にコミュニケーションのことが壁になりました。そこで、Fさんはさまざまなボランティア活動に取り組むなかで、自らの能力を周囲に知ってもらうよう努めました。重度障害のある人のパート介助職の求人情報を大学で見つけたのは、そんな時でした。ボランティア活動の経験から、自分にもできるのではないかと考え応募し採用されました。そこでの仕事は、自ら言葉を発することが困難な重度障害者の方の介助が中心でした。利用者の声が聞こえない代わりに、常に注意して表情を読み取るようにしていました。利用者とのコミュニケーションは大変でしたが、それにもまして同僚や利用者家族とのコミュニケーションに苦労したと言います。同僚にお願いをして、会議の内容や申し送りをメモにするなど、配慮してもらいました。この職場での日々は、今の仕事をする上でも貴重な経験となっているそうです。

    重度の車椅子利用者に食事介助している様子

     

    ここでの活動が3年ほど経過した頃、聴覚障害者の支援を行なっている名身連で職員募集をしていることを知りました。名身連については、学生時代に全国障害者スポーツ大会に出場した際にも関わりがあり、よく知っている法人でした。また、もともと聾学校の教員を志していたFさんにとっては将来、聴覚障害者の支援に関われるかもしれないという期待もあって応募。名身連に転職することになりました。当初はそれまでの実績を買われ、デイサービスの職員として勤務しましたが、平成4年に名身連福祉センターの建設に伴う聴覚言語障害者情報提供施設(略省 名身連聴言センター)のリニューアルに際して異動し、やがて所長という職名を得たのです。
    現在は管理者として、聴言センターの事業全体を総括しながら、聴覚障害者の相談にのったり、通訳者など支援者に対するアドバイスをしたりしています。また、企業や学校、地域に出向き、聴覚障害者に対する理解を促すための啓発活動も行なっています。一方、当事者として聴覚障害者の声を行政に届ける役割も積極的に担っています。
    なかでも、平成28年6月よりスタートした24時間救急手話通訳者派遣事業は、地域の聴覚障害者からの強い要望を受け、自らも聴覚障害者として必要性を感じて取り組んだ事業です。行政と共に実現に向けて整備に関わった結果、ようやく制度化されました。これからも障害当事者の視点から、地域の方々と共により良い社会を目指して活動していくことを忘れずに、頑張っていきたいと話しています。

    多くの人の前で手話を教えている様子

     

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  • 行き倒れニャンコの恩返し~名身連招き猫シリーズ誕生秘話~

    2016年9月18日 その他
    名身連招き猫 恩返し
    行き倒れニャンコの恩返し~名身連招き猫シリーズ誕生秘話~

    ちょっと昔のお話です。まだ今の名身連第一ワークス・第一デイサービスが、「第一ワークス」と呼ばれていたころのこと。冬なのにそんなに寒くない日でした。夕方、利用者さんの送迎から戻った職員Iさんが入ってくるなり、「所長、第一ワークスの庭に猫が死んでいて…。片付けますね」と言いました。

    びっくりして、「えっ!と、とにかくお願いします…」。なんで第一ワークスに猫の死体が、と戸惑っていましたら、外に出たIさんがやせた白い猫を抱いてまた事務所に戻ってきたのです。「死んでいると思ったら、生きていました!」


          職員Iさん(めがねをかけた中年のおじさん60代、瘦せ型)が白くやせた猫をつれてきて、女性職員が取り巻いている様子

    たちまち事務所にいた職員が、Iさんと白猫を取り巻くように集まりました。猫好きなHさんがお水や食べ物を与えて様子をみていますと、猫はお腹が空いていたのか、水をペロペロなめ、えさもガツガツと食べ始めました。それからしばらく第一ワークスで面倒をみることとなり、「行き倒れニャンコ」は利用者さんにも懐いてすっかり人気者になりました。数日もたつとすっかり元気になったので、今度は里親探し。縁あって名身連の関係機関の方に里親になっていただくことができ、名残惜しくも行き倒れニャンコはもらわれていきました。

          やさしそうな女性の里親さんに抱かれた白い猫。見送る名身連の職員の様子

    こんなことがあって間もなく、私たちは招き猫のデザインに出会ったのです。それまで猫のモチーフにさほど興味のなかった職員も、行き倒れニャンコがなつかしくて胸がきゅんとしたのかもしれません。そしてみんなでこの招き猫を自主製品のデザインにしていこうと心が動き自主製品の開発をスタートさせました。

          招き猫のデザインに胸がキュンとしている職員Iさん(めがねをかけたぽっちゃりした男性40代)や女性職員
    イラスト協力@愛知淑徳大学 メディアプロデュース学部メディアプロデュース学科2年 笠原 礼子 さん


    そのときから、名身連第一ワークス・第一デイサービスでは、招き猫デザインの手ぬぐいを素材にオリジナル製品を作って売るようになりました。バッグやポーチなど、バリエーション豊かな「招き猫シリーズ」は、名身連の定番人気商品に成長し、みなさんにたくさんお買い上げいただけるようになりました。思い返すと、あのとき行き倒れニャンコに出会わなかったら、「招き猫シリーズ」のヒットは無かったような気がするのです。それはあの子がくれた「猫との出会い」という恩返しだったのかもしれません。

    猫バック名古屋バージョン     猫バックいろいろ

                 購入希望の方は 商品紹介 をご覧ください。

     

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  • 介助が必要でも働ける~ステップアップしながら、在宅就労を実現~

    2016年9月18日 働く
    Cさん 20代 脳性まひ
    介助が必要でも働ける~ステップアップしながら、在宅就労を実現~

    Cさんのサービス利用経過

    名身連第一ワークス・第一デイサービス生活介護(生産活動なし)
    →生活介護(生産活動あり)
    →就労継続支援B型
    →就労移行→名身連相談事業所

    Cさんは地元の中学校卒業後、特別支援学校の高等部を卒業しました。Cさんは、一般就労して、自立したいといという夢を持っていました。それまで地元のコンビニやレンタルショップに一人で行くことはありましたが、介助が必要な場面が多かったので、公共交通機関を利用して一人で外出する機会がありませんでした。一般就労の夢をかなえる第一歩として、まず一人で通勤できるよう、名身連まで市バスで通所することになりました。当初はヘルパーさんに同行してもらいましたが、ある程度慣れたので一人で通うことにしました。雨の日でも車椅子用のカッパを着用し、休むことなく毎日一人で通所しました。このころの彼は、生活介護(生産活動なし)で創作活動に取り組む毎日。人前に出ることにも臆さず、新春パーティーの司会を担当するなど意欲的でした。
    Cさんが、雨の中車椅子用のカッパを着てバスで通所している様子

    一人通所も順調で、体力もついてきたので、Cさんは生活介護(生産活動あり)に移って軽作業のプログラムに取り組むことになりました。創作活動にくらべると、集中して作業を行なわなければなりません。最初は疲れましたが、こちらにも少しずつ慣れ、自ら工夫して作業に取り組むことができるようになりました。トヨタコミュニケーションシステムのPCクリーニング作業など、誇りをもてる仕事にもかかわり、働くことが楽しくなりました。また同じ生活介護(生産活動あり)から継続Bに変わった利用者を目の当たりにして、「もっとがんばらないといけない」と、より就職への思いが強くなりました。

    Cさんは自分もステップアップしたいと職員に相談し、就労継続B型に行く準備を開始しました。就労継続B型は生活介護より働く時間が長くなり、また利用者さんの年代も様々でCさんより年上の人も多く、職場での言動や仕事の指示の受け方など、アルバイトや就労経験がなかったCさんにとっては初めて一般就労に近い環境に身を置くことになりました。その一方で、自分に合う職種を絞り込んだり、通勤できる範囲を考えたり、どのような働き方をしたいかなど、求職活動前の準備も念入りに行いました。その結果、通勤範囲は自宅から30分程度のところで、事務系の作業をしたい、と自分の希望をはっきり意識できるようになりました。このように働くための下地も整ったところで、就労移行に移り求職活動を開始することに。
    Cさん(車椅子)が、年長者に囲まれて作業している様子

    就労移行では、事務職への就職に向けパソコンのプライベートレッスンを行いました。講師として、クリーニング作業のときにもお世話になったトヨタコミュニケーションシステムの専門のスタッフが来てくださり、Cさんのレベルに合わせた独自のプログラムを組んで研修を実施しました。その成果が出てパソコンのスキルが上がり、難しい表計算もこなせるほどに。ご本人にも自信がついたので、職安に登録。早速求職活動を開始しました。

    しかし実際求職してみると、トイレに若干の介助が必要ということでなかなか受け入れてくれる事業所がありませんでした。Cさんが受けてみたいと決めた事業所に、ハローワークから連絡していただくのですが、あらかじめトイレ介助が必要な方と伝えると、申し込みそのものをお断りという会社が10社以上。また面接にこぎつけても、職場内でトイレの補助をお願いしたいという話になると、結局就職することが叶いませんでした。
    Cさん(車椅子)が、就職面接している様子。担当者は、少し渋い表情をしている。 Cさんは、の表情は少し曇り気味

    面接を受けてみて、Cさんは、介助をしてもらいながらの就職が難しいことを知りました。当初、在宅就労を希望していませんでしたが、トイレ介助の問題をクリアするために在宅就労の道を選んだのです。仕事のある日のCさんの日課ですが、朝9時に職場に連絡して、仕事を開始します。12時から13時までの昼休憩の時間に食事やトイレを済ませます。その間はヘルパーさんに自宅に来てもらい身体介助を受けます。休憩が終わると、午後は16時まで再び仕事に励みます。在宅ですが、家の中にこもりがちにならないように仕事以外は積極的に外に出るようになりました。

    就職という夢を実現したCさんはさらに自信がもてるようになりました。障害者関係の大きなイベントで300人程の観客を前に司会をつとめるなど、公私にわたり積極的に活動しています。
    多くの人の前で司会を担当し自信にあふれるCさん
    イラスト協力@愛知淑徳大学 創造表現学部創造表現学科1年 口谷 優里菜 さん

     

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  • ファッションショーに出演~新たな自分を発見~

    2016年4月7日 自立・活動・交流
    Aさん 20代 脳性まひ

       Aさんは、特別支援学校卒業後、生活介護(生産活動なし)の利用を開始され創作活動等に取り組まれていました。Aさんは、どちらかというと人見知りタイプで、自分の思いを伝えることもあまり得意ではありませんでした。そんなAさんを、いつもご家族が心配してフォローしていました。

    特に初めての人と向き合う時には緊張してしまい、自分の思いを伝えることに時間がかかりました。

       そんなAさんに、脳損傷ケアリング・コミュニティ学会(脳損傷者や関係者でつくる学会※http://caring.co-site.jp/index.html)のファッションショーにモデルとして出演してはどうかとの話しが舞い込みました。当初は迷っていたAさんでしたが、周りからの後押しもあり出演することになりました。

    このファッションショーは、当事者が自ら着たい服を着て主役になることを実現することを目的としていました。そのため本格的なモデルとして、洋服もオーダーメイドで作成していただけ、スタイリストさんやヘアーデザイナーさんもつくことになりました。そして、みんなで良いステージを作ろうと何度か打ち合わせがありました。しかし最初の打ち合わせで、Aさんは緊張してなかなか自分の好きな服や希望を伝えられずにいました。またいつも洋服を家族に選んでもらっていたため、自分の好みや今どんな洋服が流行っているのかを知る機会もなかったことがわかりました。そこでまず、自分の服を自分で選んで買ってくるというミッションがAさんに与えられました。

       その後、Aさんは、自ら好きな洋服を買うために出かけました。そして自分の目で色々な洋服を見て、好きな洋服を着てくるようになりました。その後の打ち合わせでは、自分の気持ちを相手に少しづつ伝えられるようになりました。ファッションショーに着る洋服も、ドラゴンズが好きだからという理由でブルーを選択しました。また、髪型も変えることになりました。ファッションショーに着る洋服については、家族と意見が分かれることもありましたが、Aさんは自らの意思を貫きました。ファッションショーの当日は、朝早くから準備に追われました。いよいよ出演という段になりAさんの表情はみるみる青白くなりました。まわりで見ていた家族や関係者は、大丈夫だろうかと心配しつつもAさんを見守り、応援しました。また、名身連第一ワークス・第一デイサービス生活介護の他の利用者さんも、職員と一緒にバスで応援にかけつけました。

       いよいよファッションショーが始まりました。それまで緊張していたAさんが、音楽と同時に堂々と舞台に上がりました。そしてなんと舞台に向かってポーズを決めたのです。会場では、「Aさんカッコいい」という声や拍手があちこちで起こりました。このファッションショーを機会に、自分に自信がつき以前よりも活発に意欲的に取り組むようになったAさん。その後作業活動にも興味を示され、現在では作業にも取り組むようになりました。

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  • 新幹線で九州へ~自分だけの旅~

    2016年3月16日 出かける・手伝う
    名身連旅行センター利用・Jさん 左下肢
    新幹線で九州へ~自分だけの旅~

    「僕は車を走らせることはあっても、新幹線に乗ることがほとんどなかった。東京まで乗ったことはあったが、西に…九州に行ってみたかった。」

     Jさん(男性・73歳)は左下肢が不自由で、二本の杖をついて重い脚をひきずるようにゆっくり歩行します。段差はとても辛い。高齢になり、最近は特に外出が困難だと感じています。それでも、地元の身障協会や名身連の役員を歴任し、障害のある人たちのために長年働いてきました。

           イメージイラスト1 想い悩む様子1

    会社勤めの頃には慰安旅行、その後は身障団体の旅行でバスツアーに参加したことはありましたが、ゆっくりとしか歩けないので、みんなについて行くのがとても大変だったと言います。

              イメージイラスト2 まわりから歩くのが遅れる様子

     会社を定年退職して13年経った平成27年秋、Jさんはようやく、自分の楽しみのためだけの旅をしようと決意して、名身連旅行センターを訪れました。九州まで新幹線に乗るだけでいいと思っていましたが、せっかくなので気のおけない人と二人連れ立って、九州の名湯、別府温泉まで足を延ばしてみることにしました。旅行センターでご要望を伺い、交通や宿のプランを立てました。

           イメージイラスト3 旅行センターで楽しげに打ち合わせをする様子

    「九州は大きい。何もかも壮大です。写真で見るのとは違う。最初で最後と思って出かけたけれど、行ってみて本当に良かった。何でも一回やってみないといけませんね。」

     大分県では観光タクシーを頼み、マイペースでゆったりと、九重”夢”大吊橋や湯布院、別府地獄めぐりなどを観光しました。現地で撮った写真を一緒に見せていただきながら、旅の感想を伺っているうちに、だんだんJさんの口もとがほころび、こんな思い出話もして下さいました。

    「昭和53年ごろ、友人の自家用車に乗せてもらって九州を一周したことがある。その旅がきっかけで、もう若くなかったが、自動車の免許を取得した。以来、自分でハンドルを握って近くの山々にドライブするようになった。」

     普段お話ししているだけでは気づきませんでしたが、Jさんは雄大な風景を求めて自由に動きたいと思っていらっしゃるのです。旅の話をしているときは、遠い地に心をはせ、生き生きとした表情になります。

           
           イメージイラスト4 旅行プランが決まり喜ぶ様子
           イラスト協力 ©愛知淑徳大学

     今回の旅にも、ちょっとしたトラブルはありました。新幹線の指定席は扉やトイレに近いところに予約したのですが、駅員さんが車両の反対側の乗り口に案内してしまったため、通路をはしからはしまで歩かなければならなかったそうです。それでも座ってしまえば快適で、あっという間に九州に着いてしまって驚いた、とおっしゃっていました。人についていかなければならないツアーと違い、観光タクシーを使って自分のペースでゆっくりなら旅が楽しめる。Jさんはそのことに気づき、自信をもつことができたようです。

     

    (トップページの写真:帰途に就く前に別府駅で撮影。Jさんはこの写真で今回の作品展に応募されています。)

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